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プロフィール
道武帝(どうぶてい)は、北朝北魏の初代皇帝。姓諱は拓跋珪(たくばつけい)。
来歴と事績
| -->(ただし『宋書』では拓跋什翼犍の子となっている)。 |
| 371年に父の拓跋寔(献明帝)は武将の長孫斤の反乱によって殺される。 |
| さらに376年には後嗣問題がこじれて祖父の拓跋什翼犍も庶兄の拓跋寔君によって殺された。 |
| このため弱体化した代は前秦の苻堅によって滅ぼされる。 |
| 肉親と祖国を失った幼い珪は鮮卑賀蘭部の東部大人だった外祖父の賀蘭野于を頼った。 |
| やがて成長した珪は苻堅が死ぬと、親戚で匈奴独孤部の大人(たいじん:部族長)劉庫仁の後盾を得て、386年に中川(現在の山西省)で旧民を糾合し代王を称して自立、盛楽(現在の内モンゴル自治区フフホト市ホリンゴル県)に都を置いた。 |
| 同年には国号を魏に改めて魏王に即位。 |
| その後河北に進出して同地を制圧、柔然などを討伐、また391年には遼河源流のシラムレン河下流で仇敵の庫莫奚を、また内蒙古の科布多でテュルク系の高車を征服、さらに396年には匈奴鉄弗部の劉衛辰(赫連勃勃の父)の軍勢を破ってこれを斬り、華北をほぼ平定した。 |
| 398年には平城(現在の山西省大同市)を都として皇帝に即位した。 |
| 即位後、部族民による合議制を廃して中央集権化を目指す一方で、それまで野蛮と言われた民族の習慣を打破するために漢民族の文化を積極的に取り入れた。 |
| また、多民族統一の手段として仏教を積極的に取り入れ、泰山の沙門竺僧朗を厚遇したり、平城に堂塔を建立したりした。 |
| 皇始年間には、趙郡の沙門法果を道人統に任じて僧徒を統率させた。 |
| 晩年は酒色に溺れ、道士の調合した薬によって精神に異常をきたすようになり、后妃に対してまで乱暴を繰り返すようになった。 |
| 409年、母の賀氏の身を案じた次男の清河王拓跋紹が宮廷クーデターを起こし、珪を殺害した。 |
| 死後に烈祖宣武帝(れっそせんぶてい)、のちに改められて太祖道武帝(たいそどうぶてい)の廟号・諡号を追諡された。 |
宗室
| 皇后慕容氏…慕容宝の娘。 |
| 宣穆皇后劉氏…劉眷の娘、明元帝の母。 |
| 貴妃賀氏…清河王の母。 |
| 貴妃王氏…陽平王・河南王の母。 |
| 貴妃段氏…広平王の母。 |
| 明元帝(拓跋嗣)…北魏2代皇帝。 |
| 清河王(拓跋紹)。 |
| 陽平王(拓跋熙)。 |
| 河南王(拓跋曜)。 |
| 河間王(拓跋脩)。 |
| 長楽王(拓跋處文)。 |
| 広平王(拓跋連)。 |
| 京兆王(拓跋黎)。 |
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投票数
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つながりの強いひと
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太武帝
北朝北魏の第3代皇帝。字の仏狸は古代テュルク諸語のbüriで、狼を意味する。 |
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明元帝
北魏の第2代皇帝(在位:409年-423年)。 |
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孝文帝
北朝北魏の第7代皇帝(在位:471年-499年)。諱は宏。 |
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文帝
前漢第5代皇帝(恵帝の子とされる2人の少帝を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。劉邦の庶子で、生母は薄氏。妻に竇氏がいる。 |
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南北朝時代
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。 |
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文成帝
文成帝(ぶんせいてい)は北朝北魏の第5代皇帝。 |
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平王
周朝の第13代王。平王の時代より周は東周と称されるようになる。子は太子洩父、王子狐、王子烈ら。宜臼は元来幽王の太子であったが、褒姒が後宮に入り寵愛を... |
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天興
ベトナム後黎朝の前廃帝厲徳侯が使用した元号。1459年旧10月7日-1460年旧6月7日。『明史』は天与(天與)に作る。ちなみに日本の「大正」改元の際、最終候補... |
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孝武帝
孝武帝(こうぶてい)は東晋の第9代皇帝。簡文帝の第6子。372年、父の崩御により12歳で即位した。即位直後は年少であったことから重臣の謝安による補佐を受け... |
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東晋
中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年-420年)。西晋に対し史書では東... |
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献文帝
献文帝(けんぶんてい)は北朝北魏の第6代皇帝。 |
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曇曜
中国の南北朝時代北魏第3代太武帝の廃仏より復興した仏教教団の中心人物となった僧である。曇曜の詳細な伝記は残されていないが、『魏書』中の仏教・道教関係... |
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穆帝
347年に四川地方に建国されていた成漢を滅ぼし、356年には一時的にではあるが洛陽を奪回するなど、軍事面において大きな戦果を挙げている。361年、数え年19歳... |
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元嘉
南北朝時代、宋の文帝劉義隆の治世に行われた年号。424年-453年。元年8月:劉義隆が即位、元嘉と改元。22年:元嘉暦施行。30年2月:皇太子劉劭、文帝を殺害し... |
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世祖
世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日)-成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日-1468年9月7日)は李氏朝鮮の第7代国王。... |
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恭帝
恭帝(きょうてい)は東晋の第11代(最後)の皇帝。9代皇帝孝武帝の次男で10代皇帝安帝の同母弟に当たる。 |
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姚興
姚興(ようこう)五胡十六国時代の後秦の第2代皇帝。 |
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道武帝さんについてのひとこと紹介
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