「対談〜父よあなたは変だった」遠藤龍之介 VS. 斎藤由香 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ┌---------------------------------------------------------------┐ 「文学サロン 愛する人へ」が、去る2005年10月29日、栃木県大田原市と 日本ペンクラブの共催により、那須野が原ハーモニーホールで開催されま した。 第1部は、ペンクラブ副会長の中西進さん(京都市立芸術大学学長・奈良 県立万葉文化館館長)が、「子どもと母に語り聞かせる『万葉』」と題して、 講演を行いました。 第2部では、遠藤周作元日本ペンクラブ会長の長男でテレビ局勤務の遠藤 龍之介さんと、作家北杜夫氏の長女でエッセイストの斎藤由香さんが、 「父よあなたは変だった」と題して対談をしました。 壇上のスクリーン ... もっと見る
「対談〜父よあなたは変だった」遠藤龍之介 VS. 斎藤由香 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ┌---------------------------------------------------------------┐ 「文学サロン 愛する人へ」が、去る2005年10月29日、栃木県大田原市と 日本ペンクラブの共催により、那須野が原ハーモニーホールで開催されま した。 第1部は、ペンクラブ副会長の中西進さん(京都市立芸術大学学長・奈良 県立万葉文化館館長)が、「子どもと母に語り聞かせる『万葉』」と題して、 講演を行いました。 第2部では、遠藤周作元日本ペンクラブ会長の長男でテレビ局勤務の遠藤 龍之介さんと、作家北杜夫氏の長女でエッセイストの斎藤由香さんが、 「父よあなたは変だった」と題して対談をしました。 壇上のスクリーンには、「狐狸庵vs.マンボウ」と大書された横断幕が 掲げられ、家族写真などを映写しつつ、2人の芥川賞作家の面白おかしい 日常と父親像を、息子と娘の視点から「親愛」の情をこめて語り合いました。 今号のメルマガでは、この対談の要約を掲載します。 └---------------------------------------------------------------┘ □遠藤龍之介 VS. 斎藤由香「対談〜父よあなたは変だった」 司会 横断幕に「狐狸庵VS.マンボウ」と書いてありますが、狐狸庵こと遠藤周作さ んは9年前に亡くなりまして、来年で没後10年になります。マンボウこと北杜夫さん は今もご健在ですが、お2人がここに出てくるわけではございません。 遠藤周作さんの長男である龍之介さんと、北杜夫さんの長女である斎藤由香さん が「父よあなたは変だった」という題で対談していただくことになりました。 遠藤 斎藤さんと僕は、もう35年くらい前からの幼なじみで、いつも「由香ちゃん 」と呼んでいました。ですから「由香ちゃん」と呼ばせていただきますが、北杜夫 先生やウチの父のことは、皆さん、ご存じだと思います。しかし家庭人としては、 ちょっと違っていますので、子どもから見た父親像とか、そんな話をしてみたいと 思います。 斎藤 私は龍之介さんを、びっくりさせようと思いまして、昔の、父と遠藤先生が パーティーでお目にかかった時の写真を持ってまいりました。(投影機でスクリーン 上に拡大写真を投影) 遠藤 若いですねえ、2人とも40代の真ん中くらいでしょうか。これは貴重な1枚で すね。それから由香ちゃん、お客様から写真を持って来ていただいてますね。 斎藤 そうなんです。さっき、まだ直接お目にかかってご挨拶できなくて本当に申 し訳なかったんですが、栃木県大田原市の井上様から、わざわざ昭和39年の婦人雑 誌がご自宅の蔵にあったということで、写真グラビアを届けていただきました。こ れは私の2歳の時の写真で、下に父が何か文章を書いています。 「目の離せない年頃、ちょうど2歳になった。生まれたてを思うと夢のようである。 もう戸棚も開けるし、椅子も持ってきて高い所の物にも手を伸ばそうとする。数日 前も椅子から落っこちて、持っていたフォークで鼻の横に怪我をした。父親には、 あまりなつかない。それでも2階の仕事部屋にやって来るのは、常に置いてあるコカ コーラを飲みたいためである。階段を降りる時にも、前向きで、ふんぞり返って降 りたりするので危なくて、うっかり目を離せない」と、こんな子供のような文章を 書いています。 遠藤 なるほど、かわいいですねえ。私も小さい頃の写真を持って来ました。こん な感じなんですけどね。 斎藤 龍之介さんは、小さい時から将棋をやってらっしゃったそうですね。 遠藤 将棋とか囲碁とか、やっていたんです。それで、ウチの父親は55歳くらいか ら囲碁に凝って「宇宙棋院」というのをやりましたけど、最後まで上達しませんで したね。これは囲碁をやって、私が何か真剣に考えている感じの写真です。 斎藤 そういえば、ウチの父は将棋が好きで初段の免状を持っていましたが、龍之 介さんが中学生の時に将棋が上手だというのを聞きつけて、「龍之介くん、一緒に やろう」とか言って、コテンパンに父がやられたということがありましたね。 遠藤 そうなんです。たしか北先生と、2、3回やりましたね。それでウチの父は囲 碁だったんですけど、結構よく「教えてくれ」と言われて、対局してあげました。 今でいうハンディキャップをつけてやりましたが、それでも20回くらい連続で僕が 勝ってしまいました。その時、母が私を呼ぶんです。「あなた、ちょっと負けてあ げなさいよ」と言うんです(笑い)。そうすると父が「余計なこと言うな!」って 怒ったのを憶えています。 斎藤 懐かしい思い出ですね。 遠藤 やはり普通の家庭と作家の家というのは、どこか違うなあ、と思いますね。 お恥ずかしい話なんですが、実は自分の父親が「小説家だ」ということに気づいた のが10歳くらいの時です。こんなことがありました。よく「私のお父さん」という 作文を小さい時に書かされたんですけど、ウチの父親は夜型だったもので、夜の11 時くらいから執筆に取りかかって、朝7時くらいまでモノを書いている。そうすると 私が学校へ行くので起きて朝ごはんを食べる頃は、まだ寝ているわけです。 斎藤 ウチも同じです。私は幼稚園の時から、ずっと夜の8時か9時には寝て、夜中 の12時とか午前1時とか2時とかになると、父が何かゴソゴソやっているんです。だ から「パパ、ドロボーだ」と思って(笑い)、パパがドロボーだったら、どうしよ うと、誰にも相談できなくて、ジーッとしていました。それで、私が小学校2年生ぐ らいになって社会科の授業がありました。学校の先生が「サラリーマンのお父さん の人、手を挙げて」と言うと、ほとんど8割が手を挙げるんですね。「魚屋さんとか 八百屋さんの人」と言うと、また1割ぐらいの人が手を挙げます。私、どこに手を挙 げていいか分からないし、小学校2年生の時は父親の職業について意識がないんです。 「今まで手を挙げてない人」と言われると、私だけ「ハーイ」と手を挙げます。す ると「斎藤さんのお父さんって、何をやっているの?」と聞かれて、まさか「ドロ ボー」なんて言えないので「わかんないです」と言ったら、先生は「じゃあ、夕 食の時に、お父さんに職業を聞いていらっしゃい」とおっしゃいました。家に帰っ て夕食の時に「パパ〜、パパの職業って何?」と尋ねたら、父は「著述業」と言っ たんです「小説家」とか「モノ書き」と言ってくれればいいものを、小学校2年で7 歳の私には「著述業」なんて、ますます分かりません。それで「わあ、由香、イヤ だ、イヤだ」と、食事中に泣いてしまいました。 遠藤 お父さんの仕事が、トラウマになっていたわけですね。私も朝から夕方まで、 父は寝ているわけだから「お父さんの仕事は?」と聞かれて、まあ純粋だったもの で「寝ていることでオカネを稼げる仕事」(笑い)なんて書いたことがあります。 斎藤 ところで、私の父にとって遠藤先生は4歳くらい年上で、しかも芥川賞を受賞 されたのも父より5年ほど前でした。ですから遠藤先生は、雲の上のような存在で、 本当に尊敬する作家の1人でした。それで父が昭和35年に芥川賞を受賞した時に、遠 藤先生は結核か何かで入院されていましたね。父が病室へお見舞いに行って、その 時に文芸雑誌か何かで対談させていただいて、初めて遠藤先生にお目にかかったそ うです。その時のことを、父はエッセイに書いているんです。初めて遠藤先生にお 目にかかった時、先生が起き上がるとヌーボーとして、背の高い人だなあというの が初めての印象だったと書いています。そのあと仲良くさせていただいて、「狐狸 庵対マンボウ」とか、軽井沢の別荘とか、いろいろ楽しませていただきました。 遠藤 そうですね。ウチの父と北先生は、それから一緒に「樹座」という劇団に出 ていただいたり、いろいろ楽しいことがありました。やはりウチの母なんかも、あ の頃が一番華やいだ時期だと言ってました。 斎藤 私が龍之介さんとお目にかかれるのは夏の軽井沢でしかないんですけれども、 実は遠藤先生からは、しょっちゅう自宅に電話がかかってきました。電話に出る と、よくドイツ語や英語で「ハロー」なんて言われて、「ワタシ、日本語あんまり 話せません」とか言って、「きのうニューヨークから帰って来ましたけど、あした、 お会いする約束ありますよね」なんて、それが遠藤先生なんですよ。 遠藤 ウチの父親はイタズラ好きで、あちこち迷惑をかけたようなんです。実はイ タズラ電話の件に関して言うと、最初はウチの父親が被害者でした。梅崎春生さん という有名な作家がいらして、よくボクシングの試合で賭けをしようと、電話がか かってきました。土曜日とか日曜日の昼間、梅崎先生から「3時から試合が始まるか ら、どっちが勝つか賭けよう」というわけです。それで、ウチの父は15連敗くらい して、どうも「おかしい」と思っていたら、前の晩に試合があって録画が放映され ていた。ようやく気づいて、どこかで復讐しなければと思い、それで北先生が被害 者になったわけです。 斎藤 しょっちゅうイタズラ電話がかかってきました。たくさんあって、話し切れ ないほどです。 遠藤 由香ちゃん、お父さんの北先生は精神科医の免許を持っているのに、その方 が躁鬱病になるというのは、僕ら不思議なんですが。 斎藤 私も母も分からないんですが、私が小学校1年生の時に、急に父が元気になり ました。原稿は書きたいし、音楽も聴きたいし、絵も描きたいし、もう24時間ずっ と起きていました。それで「どくとるマンボウ共和国」とかいう変な国を作って金 貨を造ったり、家の中はグチャグチャになりました。小学校の入学式も来てくれな いし、学校の運動会にも来てくれない。家族で海水浴とか、ドライブとか、遊園地 とかに行ったこともなくて、家の中はグチャグチャなんです。もう作家なんて最低! と思って、人間が正しく生きること、きちんと真っ当に生きることはサラリーマン が一番、そう思って私は会社に入りました。 遠藤 僕の場合は高校2年の頃から色気づきましてね、ガールフレンドなども出来ま した。当時は携帯電話なんかありませんから、ウチに電話がかかってくると、いつ も家に居る父親が受話器をとります。今みたいに親子電話もないものですから、書 斎にある電話を最初に取るのは父親です。ガールフレンドから「龍之介さん居ます か?」なんて言う電話があると、父がイタズラするんです。「アッ、昨日の週末、 息子と一緒に過ごされたお嬢さんですよねえ、どうもありがとうございます。こん な息子なのに...、ちょっとお待ちください」なんて言うものだから、もう電話は切 れているんです。そんなことで、ずいぶん私は女性の友人を失いました。あまりに もひどいので、もうイタズラを止めてくれないかと抗議したら、本当の愛というの は、いろんな障害を乗り越えるものだ(笑い)なんて言うんですよ。 斎藤 まさに「愛する人へ」というテーマに、ぴったりですね。 遠藤 いや、「そういうことだったのかなあ」と、今では思いますけどね。 斎藤 私の場合、父が肩車してくれたことなど一度もありません。ただし私が小さ い頃、母が唯一幸せな時期だったようです。ウチの母は大手商社マンの家に育った 普通の女性でしたので、結婚したら夫を愛し、家庭を築き、子供を産んで、平凡な がらも幸せに生きようと考えていたようです。その頃、母は食事のあとにも気持ち に余裕があったので、プリンとかスイートポテトとか、ケーキとか毎日作ってまし た。庭に出ると、春はチューリップが咲いていたり、季節ごとに花が咲いていて、 もう絵に描いたような家庭でした。母は結婚した時、父が医者だったので、自分は 医師夫人になれると思っていたんですよ。ところが、ある日ある時、父は医者をや めて作家になって、それで躁鬱病になっていますから、このあいだ母に「ママ、こ ういう人生、どう思う」と聞いてみたら、母は「ああ、詐欺にあったみたいね」( 笑い)と言ってました。 遠藤 いや、まったく。北先生とウチの父が似ていると思うのは、純文学を書きな がら、どっかでユーモア小説を書いているということですね。多分、シャイという のかな、そういうところがありました。 斎藤 お恥ずかしい話ですけど、私は父が家の中をグチャグチャにしていたので、 父の作品を全く読まないで育ちました。ところが、たまたま02年に軽井沢の高原文 庫で「北杜夫展」というのを開催させていただきました。その時、父のことを何も 知らないんで、あわてて『どくとるマンボウ航海記』とか斜め読みしたのが、作品 を読んだ初めてですね。 遠藤 そうですか。小さい頃、「勉強しろ」とか言われませんでしたか? 斎藤 勉強すると、もう「目が悪くなるから、早く寝なさい」と言われたんです。 実はですね、先ほどすばらしい講演をなさった中西進先生が昔、成城大学国文科の 先生でいらっしゃいました。その時、私は中西先生のゼミ生だったんです。大きい 声で言えませんが、本当に出来の悪い生徒で恐縮しています。でも中西先生は、先 ほどの講演にありましたように、とっても優しく、あたたかい先生でいらっしゃい ましたので、先生のお部屋に呼んでくださり、「斎藤さん、おじいさんが斎藤茂吉 先生なんだから、せっかくだから卒論で斎藤茂吉をやりなさい」と、おっしゃって くださいました。でも私、まだ父親の本ですら読んだこともないくらいで、まして 歌なんて読んだことも見たこともなくて「あのう、読んだこともないんです」と申 し上げたら、中西先生が「大丈夫だから」とおっしゃってくださって、それで卒論 を書くことができました。すごいダメ卒論でしたが、20年ぶりにお目にかかって先 ほどご挨拶を申し上げたところ、「すばらしい卒論でしたよ」と、おやさしい先生 で本当に良かったと思います。 遠藤 最後に僕が大きくなってからのことで、父の晩年の思い出を話しておきたい と思います。ウチの父は怖かった面もありまして、息子が自分の本を読んで何かを 言うなんて、とんでもないことでした。昔気質の文士でしたから、私は隠れて父の 本を読んでいたものです。ところが、実は最後の作品となった『深い河』を書いた 時に、家を離れた僕の住所に贈呈本を送ってきました。父親が息子に本を贈るなん て、それまで一度もなかったので、びっくりしました。それで、どうしたんだろう と思いまして、『深い河』という小説を読みました。すると、今までの父の小説の モチーフが少しずつ入っています。ちょっと大河っぽい小説で、何か父の小説の総 集編みたいな感じがしたものです。これを書いてしまうと、これから先もう書くも のがなくなってしまうんじゃないだろうか。これが最後の作品になってしまうので はないだろうかと、何となく予感がしたものです。 斎藤 それは遠藤先生がおいくつの時ですか。 遠藤 70歳くらいの時だったと思います。もう重い病気になりかけていて、結果的 にそれが最後の作品になりました。やはり親子というのは、何となく予感みたいな ものがあるのかなと思いました。離れて住んでいても、今日のテーマに「愛する人 へ」とあるように、必ずしも同じ場所や同じ時間を共有しないでも、ある予感みた いなものがあると感じました。そんなことを思ったことはありますか。 斎藤 そうですね。愛するという言葉で言うと、昨日の夜、夕食のあと父の寝室に 行って、明日、龍之介さんにお目にかかるという話をしました。最近、父はずっと 鬱病で、何も書く気力もなく、家でもテレビを見ているくらいです。そんな父が、 ポソッと「ああ、遠藤さんのウチに行った時は、楽しかったなあ」と言ったので、 私が「パパ、遠藤先生のこと好きだった」と聞いたら、父は「尊敬していたし、好 きだった」と言いました。まさに、それが本当に「愛する人へ」の言葉だと思いま す。 司会 作家の家庭のこと、親子の情愛のことなど、面白いお話を本当にありがとう ございました。 (文章=会報委員会副委員長・松本龍見) ===================================== ■ペンクラブ「電子文藝館」のご案内 3月に新しく掲載された文藝作品です。 *招待席 素木 しづ子(しらき しづこ 小説家)「松葉杖をつく女」 *詩 神山 暁美(かみやま あけみ 詩人)「糸車」 閲覧はすべて無料です。ぜひごらんください。 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/index.html ===================================== 「ぺんぺん草」 2月18日(土)、日本プレスセンターにて、「いま、戦争と平和を考える」を 開催しました。 2001年の9・11テロ、アメリカアフガニスタン侵攻を契機にはじまったこの催し も、今年で5回目となりました。 イラク戦争とは何だったのか、その統括を意図した今年の催しでは、井上ひさし 会長、吉岡忍さん、朝日ニュースターの田岡俊次さん、TBS報道局の金平茂紀さんら によるパネルディスカッション「戦争と報道」など、刺激的な討論も出ました。 日本の平和を願う方々が多いことに、勇気づけられた一日でした。 ご参加いただき、どうもありがとうございました。 戻る































