| 漢陽大学校時代は韓国代表チームの右のエースとして、数々の国際試合で名を挙げた。 |
| 1991年シーズンオフ、地域優先ドラフト(1次ドラフト)で太平洋ドルフィンズの指名を受け、エース候補の期待を背負いながら入団。 |
| しかし、入団前兵役逃れを試みたことが発覚して逮捕された。 |
| 釈放はされたが、大事なキャンプの時期を拘置所で送ったことでトレーニング不足の状態で開幕を迎える。 |
| 明らかに調整不足であったにもオープン戦から登板を強行したが、肘を痛めてリタイア。 |
| この肘の負傷が原因でプロ入り後最初の2シーズンは不本意な成績で終わる。 |
| 1994年、8勝をあげて、ようやく先発ローテーションに定着。 |
| しかし、打線の援護不足で二桁勝利にはいたらず、チームがヒュンダイに売却された1996年に15勝をあげ、チームの韓国シリーズ進出に貢献。 |
| 入団5年目で初めて二桁勝利を挙げると同時に入団当時に期待されていたエースとしての力量を発揮しはじめる。 |
| それからは5年連続二桁勝利と200投球イニングを超える大車輪の活躍で韓国を代表する右腕としてチームを牽引。 |
| 1998年、2000年の韓国シリーズ優勝に貢献し、1999年は20勝投手にもなる。 |
| シーズン20勝は、その後、2007年斗山ベアーズのダニエル・リオスが22勝を挙げるまで出なかった。 |
| 20勝を挙げた1999年シーズンオフ日本進出を試みたが、海外リーグへ進出できる資格を得るに1年足りず、優勝を逃した現代球団の反対で頓挫。 |
| 2000年、海外リーグ進出資格を獲得して、韓国シリーズ優勝の後、再び日本進出を訴えた。 |
| 球団の了承を得て、2000年オフに読売ジャイアンツに移籍。 |
| 来日時、デザイナーのアンドレ・キムがデザインした奇抜な衣装を着て空港に降り立ったため、日本報道陣の注目を集めた。 |
| 入団当時、既に趙成珉と鄭珉哲の2人が在籍しており、自身の加入により韓国人投手3人となった。 |
| 韓国人の投手だけでも1軍の投手枠を超えてしまい、韓国人投手同士の削りあいの競争が不可避になったため、両者は彼の入団を快く思わなかったという。 |
| 移籍1年目の2001年は足の故障で活躍できず、翌2002年もリリーフのみの登板にとどまり、期待された結果を残せないまま退団した。 |
| 2003年、古巣現代ユニコーンズに復帰。 |
| いきなり17勝をあげて最多勝を獲得するも翌年以降は調子を落とし、2005年から現役を引退した2008年まで4年連続で勝ち星なしが続いた。 |
| アマチュア時代は韓国代表チームのエースとして活躍したが、プロに入ってからは国際試合ではこれと言った活躍は見せなかった。 |
| 2000年、韓国代表の先発としてシドニー五輪グループリーグの日本戦に登板し、沖原佳典に先頭打者本塁打を浴びた後中村紀洋の打球を足に受け降板した。 |
| 2003年のアテネ五輪予選では台湾戦に先発登板し、不安定な投球内容で4回2失点で降板しチームを勝利に導けなかった。 |
| 2008年現代ユニコーンズの解散の後、ウリ・ヒーローズと契約交渉をしたが、70%超の削減幅の提示を呑めず、自由契約選手として放出を要求。 |
| 2008年3月3日ヒーローズ側がこれを了承して、自由契約選手として公示された。 |
| このため、彼は、ウリ・ヒーローズに所属されることなく、チームを去ることになった。 |
| 現代の末期の3年間は未勝利などかつての力はもはやなく、そのまま現役引退という見方が支配的だったが、SKと起亜が獲得に名乗り出て、既に強力な投手陣が確立しているSKより、前年最下位で登板チャンスがあると見られる起亜タイガースとヒーローズ側の提示額と大差ない年俸7000万ウォンで契約した。 |
| だが1軍では1試合しか登板できずほとんど2軍暮らしで、2008年7月に中継ぎでの1軍昇格を打診されたが、後輩の機会を奪うことになり迷惑がかかると述べ、突如現役引退を表明。 |
| 同年10月、現代で監督を務めた金始眞がヒーローズの新監督に就任したことにより、ヒーローズ(2010年よりネクセン・ヒーローズ)の投手コーチに就任し、指導者の道を歩み始めた。 |
| なお現代での実績をたたえ、シーズン中の2009年8月、現役引退表明から1年以上たってヒーローズの手によって引退セレモニーが本拠地・木洞野球場で行われた。 |