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プロフィール
里見義重(さとみよししげ、元亀元年(1570年)?-元和8年(1622年))は、戦国時代の安房里見氏当主だったと推測される人物。 里見義弘の嫡男で幼名は梅王丸(うめおうまる)。母は 古河公方足利晴氏の娘。後に異母兄(叔父とも) 里見義頼によって無理やり出家させられて、淳泰(じゅんたい)と名乗ったという。
生涯
| 鶴谷八幡宮に残る元亀3年(1572年)12月20日付けの棟札銘に「源梅王丸」の名前が記されていることから、生年は少なくとも1572年以前にさかのぼることができると考えられる。 |
| 『新編房総戦国史』(千野原靖方著)では、梅王丸の生母足利晴氏の女が義弘と同居していた時期を「永禄10年(1567年)の三船山合戦の勝利」から「父義尭の死ぬ天正2年(1574年)6月」と推定し、この間に梅王丸と女子をもうけたとしている。 |
| また、享年を53とする伝承もあり、その説に従えば梅王丸の生年は元亀元年となる。 |
| (府馬清の著書による)。 |
| なお、実名については鹿野山神野寺に天正年間に納められた棟札及び『系図纂要』などによる。 |
| 本文では一般的に使われている「梅王丸」の呼称を用いて解説を行う事とする。 |
| 里見義弘は初め、小弓公方足利義明の娘・青岳尼を正室としていたが、子供に恵まれないまま死去し、その後かつては小弓公方家及び里見氏と対立関係であった古河公方家を反北条氏の観点から手を組むことになり、足利晴氏の娘を後室に迎え入れて誕生したのが梅王丸である。 |
| だが、梅王丸誕生によって廃嫡される事となった義弘の庶長子(一説には実弟)の里見義頼(当時は義継)や次期当主決定に関与できなかった安房国内の家臣達の不満も高まりつつあった。 |
| そこで義弘は里見氏の家督は梅王丸に継承させる代わりに安房一国を義頼に与えるという妥協案を出した。 |
| こうした中で天正6年(1578年)に居城である上総国久留里城で没したため、梅王丸が義弘側近や正木憲時・加藤信景ら上総国内にいた重臣達は直ちに梅王丸に家督を継がせた。 |
| だが、義頼や正木頼忠ら安房国内の里見氏関係者は誰も葬儀には参加しないという異常事態が発生した。 |
| 異常事態は2年にわたり、この間両国間の緊張は高まる一方であった。 |
| その間に里見義頼は居城を上総国境から遠い館山城に移すとともに仇敵である筈の北条氏政と密かに盟約を交わしていた。 |
| 天正8年(1580年)4月、義頼は奸臣・正木憲時を討つ事を大義名分として挙兵して上総国に侵攻を始めた。 |
| 義頼は梅王丸側の対応が整う前に上総国内の主要拠点を制圧して、正木憲時を小田喜城に梅王丸と加藤信景を佐貫城(義弘のかつての居城)において取り囲んだ。 |
| 憲時は一時正木頼忠を破ってその居城の勝浦城を逆に制圧するなどの奮戦を見せたものの、佐貫城の加藤信景はその月のうちに力尽きて梅王丸の助命を条件に無血開城し、憲時も翌年には小田喜城籠城中に家臣に殺害されて、義頼派の圧勝に終わった。 |
| その後、梅王丸は義頼と加藤信景との約束どおりに出家する事を条件に命を助けられて淳泰を名乗り、始め岡本城郊外の聖山、後には泉慶院(現在の館山市)の住持となって、里見氏改易後に没したとされている。 |
| だが、義頼廃嫡の原因となった梅王丸の母と幼い妹に対する義頼の憎悪は大変なものがあり、上総琵琶首館(現在の市原市)に幽閉された後に天正11年(1583年)に母子は変死を遂げたという。 |
| なお、当然の事ながら里見氏歴代からは抹消されている。 |
| だが、梅王丸名義によって出されたと推定される文書が存在するために、重臣の補佐を受ける形での当主としての政務が行われていたものと考えられている。 |
| また、近年では里見義康元服後に一時還俗してこれを補佐したために「義重」の実名が伝わっているという説も出されている。 |
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1578年
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居城である上総国久留里城で没したため、梅王... |
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1580年
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義頼は奸臣・正木憲時を討つ事を大義名分とし... |
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つながりの強いひと
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里見義弘
対立
里見義弘(さとみよしひろ)は安房国の戦国大名。里見氏の当主。 |
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里見義頼
里見義頼(さとみよしより)は安房の戦国大名。家系は新田氏の支流里見氏。 |
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田中与兵衛
堺の町衆で田中千阿弥の子。父の一字を取って千与兵衛とも名乗る。祖は里見義重の子の田中義清の流れを組むという。 |
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田中義清
『ザ・選挙』TOPページ TOP > 新潟県 > 新潟市 >政治家情報 新潟市議会議員 田中 義清 (タナカ ヨシキヨ) 【出身】 【生年】 1950年 【党派】無所... |
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古河公方
母
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方足利成氏が、享徳の乱の際に鎌倉... |
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里見忠義
里見忠義(さとみただよし)は江戸時代初期の大名。安房国館山藩12万石の2代藩主。里見義康の長男。将軍徳川秀忠より一字をもらい受け、忠義と名乗った。 |
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里見義康
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。里見義頼の長男。里見氏当主で安房国館山藩初代藩主。 |
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里見義堯
戦国時代の武将、安房の戦国大名。里見氏の当主。父は里見実堯、母は佐久間盛氏(正木通綱の同族で、三浦・正木とも称したという)の娘。正室は土岐為頼の娘... |
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正木時茂
義堯の嫡男・里見義弘に従って嫡男の信茂とともに参陣している。時茂は槍術に優れており、その恐るべき武勇から「槍大膳」と称された。旧来、没年は天正4年(... |
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里見義実
室町時代の武士。杖珠院殿建宝興公居士。里見家兼の孫で里見家基の子とされて、安房国の戦国大名里見氏の初代となったとされる人物であるが、近年では架空説... |
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千利休
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天... |
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里見実堯
戦国時代の安房里見氏の一族。左衛門佐と称する。延命寺殿一翁正源居士。系譜上は、第2代里見成義の次男で兄である義通の死後に家督を継いだとも甥・義豊の陣... |
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里見義俊
平安時代末期の武将。通称は、大新田里見太郎(新田荘内の竹林郷(高林とも)を領したため、竹林六郎太郎とも呼ばれていた)。里見氏(竹林氏)の開祖。 |
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里見義成
平安時代末期から鎌倉時代にかけての上野国の武将。新田義重の庶長子であった里見義俊(里見氏の祖)の子。上野国碓氷郡里見郷(現群馬県高崎市)を本拠とし... |
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正木憲時
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。里見氏の家臣。時茂の養嗣子。実父については時茂の末弟の弘季とするのが一般的だが、同じく弟の時忠とする説もあ... |
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里見義通
戦国時代初期の里見氏当主。弟に実堯、子には義豊がいる。民部少輔。天昭院商山正皓居士。従来の説では、第2代当主であった成義の嫡男で里見氏第3代当主にな... |
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正木頼忠
正木頼忠(まさきよりただ ?-元和8年8月19日(1622年9月24日))は戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の武将。正木氏の一族である勝浦正木氏の当主。正木時... |
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佐野信吉
江戸時代前期の大名。下野国佐野藩の初代藩主。富田一白(長家)の五男で、富田信高の弟。母は黒田久綱の娘。正室は佐野宗綱の娘。子は佐野久綱(長男)、佐... |
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里見成義
室町時代後期の安房国の武将で、安房里見氏2代目当主とされる人物。名前は義成(よししげ)とも記される。後世に編纂された系譜や軍記物にその名が見られるが... |
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田中千阿弥
千利休の祖父で子に堺の有力町衆で ある田中与兵衛がいる。 ... 千阿弥は室町幕府8代将軍足利義政に仕えて同朋衆を務めた 。応仁の乱の際、敵方に内通したと... |
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里見義重さんについてのひとこと紹介
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