| ;1876年(明治9年)。 |
| 11月9日-福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)に野口佐代助・シカ夫妻の長男として生まれ、清作と名付けられる(後述の理由により22歳で英世と改名)野口家は代々貧農の家系であった。 |
| 彼の母は勤勉で真面目な性格であったが、母の奉公先の二瓶家の紹介で婿入りした父は酒好きで怠け者の性格であり、それが野口家の貧困に拍車をかけていたと言われる。 |
| 後年、野口は母に似て勤勉な努力家になる一方、酒好きで怠け者な父の性格も同時に受け継いだものか、放蕩で多額の借金を重ね、周囲の人々に迷惑を及ぼし続けるという、極端な二面性を持つことになった。 |
| ;1877年(明治10年)4月。 |
| 1歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷するこの当時、医者といえば内科的漢方医が主流で、また農村においては医療と法術祈祷の境界も明確ならざる認識であり、祈祷師による医学的根拠のない民間治療に頼る以外に方法はなく、その結果、野口の左手の指は癒着してしまった。 |
| また、明治政府は新しく医師免許法を敷き西洋医を都市部へ導入しようとしていた段階で、三ッ和村には外科手術が可能な西洋医はおらず、仮にいたとしても野口家の経済状態では治療費を払うこともできなかったと思われる。 |
| また、たとえ治療費を払えるだけの経済力が野口家にあったとしても、当時の医療技術では、彼の左手を元通りにできるような治療が可能であったとは考えにくい。 |
| ;1883年(明治16年)。 |
| 三ッ和小学校に入学当時、義務教育制度はなかったが、小学校の学費は無料で、しかも小学校は野口家の向かい、母シカが奉公していた二瓶家の敷地内にあり、当主の二瓶橘吾は公式に学務委員を務めていた。 |
| 当時、多くの学童が一里~二里の道程を歩いて学校に通っていた状況に鑑みると、野口が勉学を行うには恵まれた環境であったと言える。 |
| 左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭される当時、半数以上の学童が様々な事情で退学していく中、家の手伝いなどで勉強が疎かになり落第したこともあったものの、上級生の時の成績は優秀で、小学校卒業時の成績は首席であった。 |
| ;1889年(明治22年)。 |
| 猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学する当時、高等小学校に通うことができたのは一部の裕福な家庭の子息だけであったが、小林は野口のために自ら学費を援助しており、当時の野口に対する小林の期待の大きさがうかがえる。 |
| また、野口自身も母や小林らの期待によく応え、高等小学校でも体操以外の成績はすべて首席であった。 |
| 野口は左手が不自由なために、体操だけは苦手であったと言われている。 |
| また、現存する彼の4年間の成績表の体操の項目には点数が入っておらず、体操は学業評価の対象ではなかったと考えられる。 |
| なお、野口は右手で箸を持ちながら左手で弁当箱を持つことができなかったため、彼が学校に持って行く弁当は、箸を使わずに右手だけで食べられるよう、いつも握り飯だったと言われている。 |
| ;1891年(明治24年)。 |
| 左手の障害を嘆く彼の作文が、小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。 |
| その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。 |
| この手術がきっかけで医師を目指す。 |
| ;1893年(明治26年)。 |
| 猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたって医学の基礎を学ぶ。 |
| この間に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(現在の東京歯科大学)の講師・6歳年長の血脇守之助と知り合う。 |
| ;1896年(明治29年)。 |
| 小林らから40円もの大金を借りて上京。 |
| 医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格するも、放蕩のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られる。 |
| 後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否され、血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなる。 |
| その後、掃除や雑用をしながら学僕となる。 |
| 同年、ドイツ語の学習を目的としてエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を得たいと考え、血脇に相談するが、月給4円の血脇には捻出できないため、血脇に策を与え院長に昇給を交渉させる。 |
| その結果、血脇の給与は月額7円となり、ここから学費を得ることができた。 |
| 後期試験(臨床試験)は実際の患者を相手に診断をするもので、独学が不可能であったため、医術開業試験の予備校である済生学舎(現在の日本医科大学)1876年(明治9年)に開校し、1903年(明治36年)に長谷川泰によって突然廃校される。 |
| それまで済生学舎に在学していた学生、教職員は1904年、日本医学校(現在の日本医科大学)を創立した。 |
| ただし、野口はアメリカで、自分は東京医科大学を卒業し、医学博士号を授与されたと詐称している。 |
| 野口が詐称した東京医科大学とは、後に東京帝国大学医科大学になる東京医学校でも、当時は存在しなかった新宿区にある今日の東京医科大学の事ではない。 |
| へ通う資金を得るために、再び血脇に秘策を与えて院長と交渉させる。 |
| その結果、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうことで病院の予算を自由に動かせるようになり、彼自身は血脇から月額15円もの援助を受けることに成功野口に15円を全額渡すと即座に放蕩してしまい、学費が払えなくなることが分かったため、血脇は5円ずつ3回に分けて渡すようになったという逸話がある。 |
| 済生学舎(現在の日本医科大学)近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿する。 |
| ;1897年(明治30年)。 |
| 臨床試験で必須の打診ができないことから、血脇の計らいで帝国大学外科学教授・近藤次繁による左手の無償再手術を受ける。 |
| その結果、打診が可能になり後期試験にも合格。 |
| 21歳で医師免許を取得した明治9年に長谷川泰により設立された済生学舎(現在の日本医科大学)は、有名な人物だけでも高橋辰五郎(1886年22歳で免許取得)、吉岡彌生(東京女子医科大学創立者)(1892年21歳で免許取得)、光田健輔(1896年20歳で免許取得)など若くして医師免許を取得する者を多く輩出し、当時の医師の半数を養成したとも言われ、野口が通学を希望した理由もここにあったと考えられる。 |
| ちなみに、当時の医術開業試験は俗に“前期3年・後期7年”とも言われたほどの難関で、30歳を過ぎても合格できない例も珍しくなかった。 |
| 済生学舎(現在の日本医科大学)の教育水準の高さもさることながら、16歳から医学の勉強を始めて4年余で試験に合格し、21歳で免許を取得した野口は優秀であったと言える。 |
| 医師免許取得後、開業資金がなく、また左手を患者に見られたくないという理由から、開業医の道を断念。 |
| 血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院で助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる。 |
| ;1898年(明治31年)。 |
| 10月-順天堂の上司である編纂主任・菅野徹三に頼み込み、順天堂医院長・佐藤進の紹介という形で、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始める伝染病研究所では学閥により冷遇されており、後に野口が研究所を辞めてアメリカへ渡る原因になったと言われるが、所長の北里柴三郎はその後も野口に対して便宜を図っており、また野口もアメリカから北里に宛てて多くの論文を送っていることから、野口と北里の関係は険悪であったとは考えにくく、この説に疑問を唱える意見もある。 |
| もともと、伝染病研究所は北里と帝国大学医学部との対立を発端として設立されており、研究所内における学閥的な風潮はそれほど強くはなかったと思われる。 |
| ただし、当時の研究員が平均28歳前後で大学を卒業し入所していた事情を鑑みると、22歳で紹介入所した野口が若輩扱いされていたのは年功序列的に致し方のない面もある。 |
| また、野口は当時、研究所勤務と同時に順天堂の雑誌編集と高山高等歯科医学院の講師も継続兼務しており、研究のための十分な時間を確保できず、研究所に在籍した8ヶ月の間に野口は一切研究に関わることはできなかったため、研究所内においては医学者としての実績・評価はない。 |
| 研究所では語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当した。 |
| 同年、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ており、また彼自身も借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があったことから強い衝撃を受け、そのモデルであると邪推される可能性を懸念し改名を決意、郷里の小林に相談の結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられた「当世書生気質」が発刊されたのは1885年(明治18年)であり、当時まだ9歳であった野口の年齢を考慮しても主人公の名前と野口清作との間に直接の関係はない。 |
| しかし、坪内は後に、「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったと知り、光栄に思う」との旨を語っている。 |
| 本来、戸籍名の変更は法的に困難であるが、野口は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段により、戸籍名を改名することに成功した。 |
| 4月-伝染病研究所渉外係の業務の一環として、アメリカから志賀潔の赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診。 |
| 10月-清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった、国際防疫班に選ばれる。 |
| 12月-箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄の姪で、医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当て、アメリカへ渡航斉藤ます子との結婚を前提とした婚約持参金の他に、小林夫人が内職で作った金、旧友から借りた金など計500円もの大金を渡航費として準備したが、横浜の遊郭でほとんどが使い果たされてしまった。 |
| 北里の紹介状を頼りに、フレクスナーのもとペンシルベニア大学医学部で助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられ、研究の成果を論文にまとめる。 |
| この蛇毒の研究は、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士からも絶賛され、野口はミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなったミッチェル博士はもともと彼の父親から受け継いだ蛇毒の研究に生涯をかけて取り組んでいたが、彼は野口の作成した論文を読んで、「私と父が親子二代にわたって取り組んできた長年の研究が、一人の日本人青年の協力によってようやく完成を迎えた」と賞賛し、研究の成果はミッチェル・フレクスナー・野口の連名で正式に学会で発表された。 |
| (ただし、病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は野口株について追試に成功したものがおらず、また当時の培地での完全な純粋培養は非常に困難であることが明らかになったため(病原性梅毒スピロヘータの純粋培養はニコラスI株について1981年以降に成功が複数報告されている)、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている)。 |
| 梅毒スピロヘータ純粋培養による病原体特定は現代に措いても追試に成功した者がおらず、梅毒に限らずスピロヘータの培地培養は補酵素の要求が非常に難しいことがわかっており、また当時使用された培地での培養は考え難いため、現代では完全な純粋培養に成功したという点は否定されている(生体組織を混入することによる感染培養は当時でも可能である)。 |
| -->京都帝国大学病理学教室に論文を提出、京都大学医学博士の学位を授与される。 |
| 小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表(ただし、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)。 |
| ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。 |
| リマ市滞在4日間にオロヤ熱およびペルー疣という2つの風土病の情報を入手。 |
| 南アフリカ出身の医学者マックス・タイラー1930年に黄熱ワクチンを完成させ、1951年にその功績でノーベル医学賞を受賞するらが、黄熱ウィルスの単離に成功。 |
| 11月-イギリス領ガーナのアクラに到着、野口説に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を望まない野口に、イギリス植民局医学研究所病理学者ウイリアム・A・ヤング博士が(ロックフェラーの組織外の)研究施設を貸与し研究を開始。 |