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プロフィール
- 野村克也とは
- 概要
- プロ入りまで
- プロ入り~レギュラー定着
- 大選手への道
- 打者としての読み
- 捕手としての駆け引き
- プレイング・マネージャー時代
- 解説者時代
- 就任時の状況
- F1セブンと平成の新少年隊
- 監督退任後
- 球界に対するスタンス
- 関連サイト
野村克也(のむらかつや、1935年6月29日-)は、京都府出身の元プロ野球選手(捕手)・監督・野球解説者、野球評論家。所属事務所はエフエンタープライズ。血液型はB型。愛称は「ノムさん」。
概要
| 現役生活は1954年からの27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした。 |
| 2010年からはサンケイスポーツの野球評論家を務める傍ら、東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督にも就任した |
| また、出身地の京丹後市名誉市民となっている。 |
| 通算試合出場数は日本プロ野球歴代1位(実働年数は歴代2位)、通算の安打、本塁打、打点、塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。 |
| 球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」とぼやいている。 |
| 選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。 |
| 前述の「ノムさん」の愛称の他にも、「ノムやん」「ノムはん」「ムース」「和製のベーブ」などと呼ばれることがある。 |
| ムースとはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。 |
| 現妻はタレントの野村沙知代。 |
| 息子は現・読売ジャイアンツ(以下、巨人)2軍バッテリーコーチの野村克則。 |
| 前妻の間にも息子が1人いる。 |
| 継子にはプロ野球エージェントの団野村、ケニー野村がいる。 |
| 自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐している通り、幼少の時から老年に差し掛かった現在まで、仕事に対する執着心は非常に強い。 |
| 野村ほど第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、自著本など数え切れないほどの仕事をこなす人物は野球界でも類を見ない。 |
| 現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手1位の出場数を記録し、プレイングマネージャーまで務めており、監督としての試合出場も通算3000試合の大台に乗せている。 |
プロ入りまで
| 家業は食料品店であった。 |
| 父・要一は野村が3歳の時に満州にて戦死したというが、実際は道端の供え物の柿を食べて亡くなったらしく、幼少時代に情けない思いをしたと語っている。 |
| 丹後ちりめんの産地で周囲は裕福な家庭が多い一方、野村の家は貧しく劣等感にさいなまれる。 |
| 看護師だった母は病弱で癌も患うが、小学校1年の頃から兄とともに毎日新聞配達をし、父の戦友の助けや母の糸繰りの仕事で何とか生活した。 |
| 貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうとコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしていた。 |
| 中学2年のときに野球部に入り、次第に周囲から注目される。 |
| 中学卒業後は働くように母から言われるが、兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより京都府立峰山高等学校に進学する。 |
| 母に内緒で野球部に入部したことがばれ、退部するよう言われるが、顧問の取り計らいにより続けさせてもらう。 |
| 貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り素振りをしていたという。 |
| 野球部は大変弱く廃部も検討されており、野村も全くの無名選手だった。 |
| 卒業後の進路は顧問がプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送り、南海監督・鶴岡一人だけが返事をくれた。 |
プロ入り~レギュラー定着
| 1954年、南海に契約金0のテスト生として入団(実はテストには落ちていたが、キャンプイン前に合格者の一人が入団を辞退したこと、高校の顧問が手紙を送った南海の鶴岡一人監督(当時は山本姓)が「カベ(ブルペンキャッチャー)用にでも入れておけや」と温情を下したことにより入団が決まった)。 |
| 野村は巨人の大ファンであったが、巨人は藤尾茂捕手が活躍していたため断念。 |
| 捕手層が薄く高齢化していた南海なら一軍のレギュラーになりやすいと考えた。 |
| 同期入団には皆川睦雄や宅和本司がいる。 |
| 当時の南海は鶴岡監督の下、毎年優勝争いを繰り広げていた。 |
| シーズン当初は出場機会がなく代打での初打席は三振、結局1年目は9試合で11打数無安打だった。 |
| シーズンオフにマネージャーに呼び出され戦力外通告を受けるが秋季キャンプ中に正捕手が交通事故、2番手捕手がトレード、3番手捕手が怪我をしたことで捕手不足となり残留。 |
| 「もしここでクビになるようなら生きていけません。 |
| 南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し、担当マネージャーに「お前のようなやつは初めてだ、でも若いうちなら人生はやり直せる。 |
| お前は活躍できないんだぞ。 |
| 俺の目は確かだ」と苦言を言われつつも何とか残ったと語っている。 |
| しかし肩が弱かったため秋季キャンプで一塁手へのコンバートを言い渡される。 |
| 当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が務めていたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。 |
| このような努力が実り、2年目の秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。 |
| この時代、まっすぐ投げられないことを先輩に指摘され、その原因がろくにボールの握り方も知らないことであったことから、考えることの重要性を知ったという。 |
| また、「遠投は体全体で投げること」という先輩の言葉を「体全体を鍛えればいい」と解釈し、当時はまだタブー視されていたウエイトトレーニングを始めた。 |
| こういう経験から、指導者となってからはプレースタイルなどについて考えることの重要さを口を酸っぱくして説いている。 |
| 3年目の1956年、ハワイ春季キャンプで一軍に抜擢され、以降正捕手に定着した。 |
大選手への道
| 打撃不振に陥った頃、テッド・ウィリアムズの著書「バッティングの科学」に出会い、その中で「投手は球種によりモーション時にクセを見せる」という一言があり、これをきっかけに投手のクセを研究するようになった。 |
| それ以来、打撃力が格段に向上したが、どうしても稲尾和久だけは攻略できず、野村は16ミリカメラで稲尾を撮影し研究した。 |
| このことが後に野村本人が確立するID野球の基礎となった。 |
| 1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。 |
| 以降毎年のようにタイトルを獲得し、南海の黄金時代を支える。 |
| 南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。 |
| 1962年、別当薫(毎日)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44本を記録。 |
| 1963年には小鶴誠(松竹)のプロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を記録ともに最終戦、最終打席で近鉄の山本重政から打ったものだった。 |
| 52本塁打は翌年巨人の王貞治が55本を打ったことによりプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としてはにタフィ・ローズが55本を打って更新するまで長く残っていた。 |
| 西鉄の中西、豊田泰光、毎日の山内、田宮謙次郎、榎本喜八、東映の張本勲、大杉勝男、阪急のダリル・スペンサー、長池徳士、近鉄の土井正博、永淵洋三といった強打者がひしめく当時のパ・リーグで8年連続本塁打王などの実績を残した。 |
| 1965年には戦後初の三冠王に輝く捕手としての三冠王は、メジャーでも例がなかった。 |
| しかし、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べて世間からの注目は少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。 |
| 5月22日、野村が史上2人目の600号本塁打を達成(後楽園球場)したときの観客はわずか7,000人ほどであった約1年前に王貞治が甲子園球場で600号を放った際の観客は3万3,000人いた。 |
| 野村はこの試合後のインタビューで「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。 |
| 彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。 |
| 悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と答え、それ以後「月見草」が野村の代名詞となった長沼石根『月見草の唄-野村克也物語』(朝日新聞社、1981年)P206。 |
| 打撃部門で多くの記録を残したが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年の1964年に王に更新され(現日本記録の55本塁打)、には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。 |
| 王は1973年以降のオールスター戦で、野村がマスクを被った試合では27打数1安打0本塁打と抑え込まれている。 |
| また、足は遅い方だったが、通算117盗塁を記録。 |
| そのうちホームスチールが7回、三盗は2回ある。 |
打者としての読み
| 上述のような成績を残せた大きな理由に、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことが挙げられる。 |
| 当時の鶴岡監督率いる南海は、他球団に先駆けてデータ収集・活用のための体制を整えており、実際のデータ収集を担当した尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号とも言われている。 |
| 野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果と併せて分析し、打撃にも配球にも生かした。 |
| 投手のクセを盗み、球を投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。 |
| 当初はカーブが全く打てず、「カーブの打てないノ・ム・ラ!」「カーブのお化けが来るぞ!」などと野次を浴びるほどだったが、投手のクセを盗みカーブを事前に見破ることで克服した。 |
| こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身に付けたものだった。 |
| 中でも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久とは、野村が苦心の末にクセを見破ると、稲尾はそれに気付いてさらに対策を講じるという、ハイレベルな駆け引きを繰り広げた。 |
捕手としての駆け引き
| 捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うことを得意とした。 |
| この策は「ささやき戦術」として知られる。 |
| 野村のささやき戦術は1950年代、当時同リーグで活躍していた西鉄の日比野武を参考にして始まったといわれる。 |
| 当初は「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などといった直接的な脅しだったため、当時ライバルだった阪急の西本幸雄監督が「先に野村にぶつけろ」と指令を出した。 |
| 東京であれば銀座、大阪であれば北新地といった繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せるライバル選手の情報を仕入れるのが常だったという2003年9月放送の『NANDA!?』より。 |
| まず、ささやきによる集中力低下を避けるために東映の白仁天は対策のため耳栓を用いたが、かえって意識しすぎて打てなかったという。 |
| 意外な所だと、投手のクセの研究に関しては野村にもヒケをとらない高井保弘は、打席で「何(のボール)待ってんのや」と聞いてきた野村に「ヤマの張り合いをしよう」と持ちかけ、ことごとく球種を言い当てた上に最後に本塁打を打ったという高橋安幸『伝説のプロ野球選手に会いに行く2』白夜書房、P132-133。 |
| オールスターゲームでも、パ・リーグ捕手としての地位を最大限に利用して同リーグ投手のデータ収集を行ったが、稲尾はこの意図を見抜いていたため野村のサイン通りに投げることはなかった。 |
| パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われており、稲尾は後年「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と語っている。 |
プレイング・マネージャー時代
| 監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年には大杉勝男に次ぐ42本塁打を放ち、には打点王を獲得したこの他にこの年の意外な記録として、トリプルスチールを2回成功させている。 |
| 2009年11月4日、RKBラジオ『中西一清スタミナラジオ』にて、作家でスポーツジャーナリストの玉木正之が電話で証言。 |
| 当時パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、実力は南海より上と見られていた阪急を退けての優勝だったただし、この年の後期には阪急戦に1勝もできず、惨敗した試合ではベンチで笑みを浮かべるなど真剣勝負を疑われかねない態度も見せたため一部で物議を醸し、「死んだふり」などと揶揄された。 |
解説者時代
| 1981年にTBSテレビ・TBSラジオ、1983年からはテレビ朝日の野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家を務める。 |
F1セブンと平成の新少年隊
| F1セブンは、かつての大洋のスーパーカートリオ(屋鋪要、高木豊、加藤博一)を意識したネーミングで、野村監督曰く「スーパーカーはもう古い、これからの時代はF1」とのことで「F1セブン」となった。 |
監督退任後
| 2010年1月24日には、故郷網野や母校在る峰山町(平成の大合併で両自治体合併し京丹後市)含んでいた京都5区選出代議士谷垣禎一が総裁就任直後の政権奪還目指す野党第一党自民党の党大会で講演をした。 |
球界に対するスタンス
| 理由は大阪府・兵庫県に南海を含めて4球団(大阪-南海・近鉄、兵庫-阪神・阪急)では観客とファンの奪い合いになることもあり、それであれば親会社である南海電気鉄道(南海電鉄)沿線の和歌山県かプロ野球のない四国地方への移転をすれば地域に密着した球団になるとの考えからだった著書『あぁ、阪神タイガース』、『巨人軍論』より。 |
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1935年
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野村 克也(のむら かつや)は、京都府出身の... |
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南海に契約金0のテスト生として入団(実はテ... |
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