| 1913年4月3日、東京市本郷区森川町(現在の東京都文京区本郷六丁目)なる母の実家にて誕生。 |
| 金田一京助と静江(旧姓・林)の間の長男かつ一人息子。 |
| 父からは学問への情熱を、母からは世俗性を受け継いだ。 |
| 春彦の出生当時、京助は三省堂百科事典の校正係の職を失って無収入であり、一家は経済的にどん底の状態にあった。 |
| 京助と同郷で懇意にしていた石川啄木(啄木は岩手郡玉山村、京助は二戸郡金田一村出身)は、新婚時代の金田一家に押しかけて静江の晴れ着を入質させた上、質屋から借りた金を踏み倒して着物を質流れさせたことがあり、そのことを静江から繰り返し聞かされて育った春彦は後年、「石川啄木という人は石川五右衛門の弟か何かかと思って育った」と回想した。 |
| 1921年4月、自宅の最寄の小学校は、西片町の教養ある家庭の子弟が多く進学校として評判の高い誠之小学校だったが、父の京助が住民票を移し忘れた関係で、本郷菊坂町の庶民的な商家の子供が多数を占める真砂小学校に入学。 |
| この学校では国語よりも算術や地理や唱歌に興味を示し、誠之小学校で本居長世から歌唱の指導を受け、頭を撫でてもらったことから、本居の人柄を慕うようになった。 |
| 4年生のときには、本郷区全体の小学校の唱歌会に真砂小の代表者として出場して独唱。 |
| この頃、夕食の席で言語学者・佐久間鼎の『国語の発音とアクセント』が話題になっていた時、自らの発音に基づいて佐久間の学説を批判し、京助から喜ばれる。 |
| このとき褒められた経験が自信となり、後年アクセントの研究者として一家を成すに至ったという。 |
| また、盛岡出身で標準語の発音に疎い京助のため、幼時からインフォーマントとして研究に協力した。 |
| 1924年2月、東京府豊多摩郡杉並町成宗(杉並区成田東四丁目)への転居に伴い、杉並第二小学校に転校。 |
| 6年生のとき、童謡教室「阿佐ヶ谷童謡楽園」に通い、当時小学校2年生だった安西愛子(のちのタレント、参議院議員)と知り合う。 |
| 1926年4月、東京府立第六中学校(東京都立新宿高等学校)入学。 |
| 折あたかも円本の全盛期であり、芥川龍之介や国木田独歩、谷崎潤一郎、藤森成吉を愛読。 |
| 同級に俳優・植村謙郎、昆虫学者・朝比奈正二郎、社会学者・阿閉吉男がいた。 |
| 苦手科目は物理学と化学だった。 |
| 体操の教師と折り合いが悪く、鉄道自殺を企てたほど悩み抜き、早く六中から逃げようとして、1930年4月、4年修了で旧制浦和高等学校文科甲類(第一外国語として英語を、第二外国語としてドイツ語を必修とするクラス)に入学。 |
| 第一高等学校も選択肢にあったが、当時自宅に寄寓していた知里真志保(同年に一高を受けて8番で合格)の秀才ぶりに遠慮した結果、一高受験を断念した。 |
| 苦手な作文が入試科目になかったのも、浦高を受けた大きな理由だった。 |
| 浦高文甲1年の同級生に劇作家・福田恆存や警視総監・原文兵衛がおり、同学年に衆議院議員・伊東正義(文乙)、山口県知事・田中龍夫(文丙)、作曲家・三木鶏郎こと繁田裕司(文丙)がいた。 |
| 入寮の夜、1級上の春日由三(のちNHK編成部長)の「諸君は恋を得よ」という演説に感動。 |
| その影響で、4歳下の安西愛子(当時東京府立第五高等女学校1年生)に生涯一度の恋文を送るも、その恋文は愛子の目に触れることなく、代わりに愛子の父安西庫司(小学校長)から懇々と春彦の非を諭した返事が来た。 |
| この失恋の件が寮全体に知れ渡り噂になったため、恥ずかしさのあまり学校にほとんど出られなくなり、病気と称して1年生をもう一度やり直すことになった。 |
| 留年した他の理由は、通常より1年早く4年修了(飛び級)で入学したため自分が人間的に充分成長していないのではないかという不安、倉田百三や阿部次郎や西田幾多郎の著書に代表されるような旧制高校的教養主義への違和感などである。 |
| 2年の時に丘浅次郎の『進化と人生』を読み、カントやショーペンハウアーといった哲学の非科学性に軽蔑の念を抱く。 |
| 留年後の同級生である遠山茂樹、市古宙三、板倉勝正は後にそれぞれ日本史・東洋史・西洋史の研究者になり、東大で春彦の同僚となった。 |
| 金銭的に報われぬ京助の生活を目の当たりにして育ったこと、親の七光りと言われるのを望まなかったこと、学業に関して京助に引け目を感じていたことなどが理由で学者以外の職業に就くことを望んだ末、京助唯一の苦手が音楽であることに着眼して作曲家を志望。 |
| 1931年11月に京助の紹介で本居長世の門人となった。 |
| なお、同門に藤山一郎こと増永丈夫がいた。 |
| 安西愛子への失恋体験を題材に、1932年5月の記念祭に際して寮歌「浦和高等学校自治寮音頭」を作曲したこともあるが、本居のピアノ演奏の鮮やかさに接して自らの音楽的才能に絶望したことや、本居から「あれはお父様のあとを継ぐ人だ」と評されたのを人づてに知らされたことが理由となって、同年の夏休みに学者志望へと転じ、京助に向かって「僕もお父さんのような学者になろうと思います」と言ったところ、喜んだ京助から日本語の方言のアクセントに関する服部四郎の論文集を渡されて通読し、感銘を受けた。 |
| 服部が日本全国の方言のアクセントを明らかにしようと志しつつも満州事変勃発によって満蒙語の研究に転じたことを知り、服部がやり残した部分の日本語の方言アクセントを研究しようと計画したが、言語学科を卒業しても就職困難なることを言語学科出身の父から知らされ、国文科志望となった。 |
| 1933年、寮を出て浦和市岸町の母子家庭三上家に下宿。 |
| 夢精で汚れた下着を始末に困って押入れに隠しておいたところ、下宿先の未亡人が厭わず洗濯してくれたことが契機となって、女性には毎月月経があること、男性は女性をいたわるべきであることなどを未亡人から教えられ、啓蒙を受ける。 |
| この家の長女珠江(当時小学校2年生)は、後に実践女学校を中退してから春彦に嫁した。 |
| 珠江の亡父三上大一郎(時事新報記者)は、勤皇の志士三宮義胤男爵の庶子である。 |