| 4代目鈴々舎馬風(1904年8月30日-1963年12月15日)は、東京府(現:東京都)出身の落語家。 |
| 本名は色川清太郎(いろかわせいたろう)。 |
| 出囃子は『さつまさ』。 |
| 実家は東京の仕出し屋。 |
| 少年時代は柔道に明け暮れていたという、手のつけられない不良で警察の世話に度々なった事もある。 |
| ある日留置所に放りこまれたが、その時出された弁当が不味いと文句を言ったらお前の店のだと逆に叱られ、家に帰って「俺が警察に捕まったらもっといい弁当を持って来い」と竹刀を振りまわして暴れたと言う。 |
| 厳つい風貌から取った異名が「鬼の馬風」。 |
| 元祖毒舌芸人として知られていて新聞記事から拾ってきた出来事をベースとした新作落語、いわゆる『時事落語』で一世を風靡している。 |
| 例えば、「山でアベックが遭難したんだよ。 |
| 数日後二人は無事山小屋で救出されたのはいいけどね。 |
| そのときの男の言った事が腹がたつじゃあねえか。 |
| 『僕たち二人は純潔でした』って言いやがる。 |
| ・・・何言ってやんでえ。 |
| 山小屋に若いアベックが二人きりで純潔なこたァあるかい。 |
| 馬風なら子供数人作っちまうよ。 |
| 」というかなりきわどい内容や、「なんでえ東大が!東大からって威張るんじゃねえ!どうせこんなとこへ落語聞きに来ないから悪口なんざ言ってもかまうもんけえ」と、従来の権威を徹底的に皮肉ったりした。 |
| 他に最新の風俗や、流行歌を過激にこき下ろした。 |
| 大阪の都家文雄、人生幸朗などが行った『ぼやき漫才』に似ている。 |
| ただし、現存するテープでは、ラジオ放送を意識してかなりソフトな内容である。 |
| 「エーッ、よく来たなァ」という前口上は多くの落語家に物真似され、とりわけ次代は当代と生き写しと評されるほどだという。 |
| そのあと「どこから来るのか知らねえけど、よくあすんでられるなあ。 |
| よっぽど家にいられない事情があるんだろうなあ。 |
| お帰りよ!」と言って「嘘だよ。 |
| ひでえこと言っちゃったねえ。 |
| どうも」と頭を下げるのに何とも言えぬ愛敬があった。 |
| 刑務所の慰問に行って受刑者を前に開口一番「満場の悪漢どもよ」「悪漢どもよよく来たなあ」と毒舌を吐き「手前らいい所に住んでやがるなあ。 |
| 三食ついているしテレビもある。 |
| 俺なんか見てみろイ。 |
| テレビなんか家にあるもんか。 |
| いつも電気屋ン前に立って見てるンだ」と続けたなお、戦争中に中国戦線に慰問に行き、兵隊たちを前に同じような調子で話したところ、まったく受けず、若手将校が怒って射殺されそうになったことがあるという。 |
| 木下華声『芸人紙風船』大陸書房より。 |
| 「粋なもんだねえ。 |
| なかなかできませんよ」と文楽は感心した。 |
| また、「友よ、サラバ」というフレーズをよく使っていたが戦前は女学生が使って問題となるという逸話がある。 |
| イメージは伝法の一語に尽きる。 |
| 反面、上記の通り良家の出で、さらに当時の芸人では珍しく旧制の中学校を卒業しており、かなりの知性があった。 |
| 落語界入り後彼を可愛がった5代目三升家小勝から落語家は現代の事を知らないと行けないと教えられ、その日の朝刊には必ず目を通し、気のついたニュースを選んで高座にかける精進を続けていた。 |
| しかし、以上のことを客に全く感じさせない洗練さも持ち合わせていた。 |
| 1921年6月に6代目金原亭馬生(後の4代目古今亭志ん生)に入門し金原亭馬治と名乗る。 |
| その後3代目古今亭今輔一門に移り今之助とする。 |
| 1924年3月に今輔の死去に伴い前の師匠である馬生一門に戻り武生と改名する。 |
| 1926年に4代目志ん生が死去したため、4代目蝶花楼馬楽(後の4代目柳家小さん)門下に移籍。 |
| 1927年9月に真打に昇進し、馬風を襲名。 |
| 弟弟子5代目柳家小さんがその前名小三治時代に日本芸術協会移籍の話が持ち上がった。 |
| 落語協会はそれを阻止するため、小さんの香盤を上げた。 |
| そのとき香盤が抜かされた2名のうち一人が同門先輩の馬風であった。 |
| 怒った馬風は一時期廃業した。 |
| タニマチに資金を出してもらいとんかつ屋を開店。 |
| しかしうまく行かなかった。 |
| 馬風は物真似が得意で、5代目小勝や6代目春風亭柳橋、2代目桂小文治の真似をして客席を沸かせた。 |
| ネタは古典では『権兵衛狸』『指南書』。 |
| また『蔵前駕籠』の改作『蔵前トラック』、『鰻屋』の改作『大蛇屋』、『幇間腹』の改作『拳闘幇間』という奇妙な改作もあった。 |
| ディズニーのアニメ映画『わんわん物語』の声優のオーディションに出た時、犬の物真似をして外人を仰天させOKが出た。 |
| 晩年の1960年9月、愛用したヒロポンが原因で、中風で倒れる。 |
| 右半身不随となるも高座への執着心を見せリハビリの末1963年5月復帰。 |
| カムバックの高座では万雷の拍手に迎えられ、「馬風さん!がんばれ!」との女性ファンの声援も飛んだ。 |
| 入院中の体験をもとに医療体制の風刺をまぶした傑作であった。 |
| 俺を!古今亭志ん生がひっくり返ったと聞いたときのあの嬉しさ!」と発言して客席を爆笑させた。 |
| 因みに死去日が力道山の没日と重なっていて、スポーツ紙の一面はみな力道山の死で埋め尽くされていて当代は一段のベタ記事であった。 |
| 一見乱暴だがどことなくおかしさの漂うキャラで、ファンはもとより、先輩の5代目小勝や8代目桂文楽、5代目古今亭志ん生、3代目三遊亭金馬らに可愛がられたが、本格的な古典を演じる6代目三遊亭圓生には徹底的に嫌われた。 |
| 唯一?の弟子に馬次(のちに桂右女助(のちの6代目三升家小勝)門下の桂右喜松)がいたが自殺、兄弟子に2代目柳家小満ん、8代目金原亭馬生、林家彦六(圓生の天敵)が、弟弟子に初代昔々亭桃太郎、5代目柳家小さんなどがいる。 |