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プロフィール
- 鈴木みのるとは
- ファイトスタイル
- 新日本・UWF時代
- パンクラス時代
- プロレスへの再復帰
- 全日本プロレス参戦
- そしてまた、新日本プロレスへ~現在
- 人物
- 主な得意技
- タイトル歴
- パイルドライバー
- 関連サイト
鈴木みのる(すずきみのる、本名:鈴木実(読み同じ)、1968年6月17日-)は、日本のプロレスラー。神奈川県横浜市出身。パンクラス MISSION所属。
ファイトスタイル
| プロレスラーながら、相手の技をよけることを得意(信条)としている。 |
| だがこれは総合格闘技のように短時間で相手を倒すためや試合の組み立てを無視した行為ではなく、本人なりの緩急の付け方や観客の盛り上げ方である。 |
| 小橋建太とのGHCヘビー級選手権でも、序盤は小橋選手の打撃をかわし続けたが、試合中盤以降はしっかりと受けている。 |
| とにかく試合前・試合中・試合後全てで卓越した話術・レスリング技術を用い相手をおちょくり続ける根っからのヒールを演じている。 |
新日本・UWF時代
| 横浜高等学校時代はレスリング部に所属この時期千葉県立成東高等学校レスリング部に所属していた永田裕志と対戦しており、二勝二敗の記録を残している。 |
| 国体2位という実績を残して新日本プロレスに入門。 |
| 1988年に飯塚孝之戦でデビュー。 |
| 翌1989年3月には、デビューから1年という一介の若手にもかかわらず、アントニオ猪木と対戦する機会を与えられ、新日本プロレスから期待されていた存在であったが、当時隆盛を極めていた新生UWFへ移籍。 |
| 同年5月には田村潔司のデビュー戦の相手を務め、新生UWF初白星。 |
| その後、高田延彦や前田日明といった大物とのシングルが実現した。 |
| 特に安生洋二との対戦は常に白熱したものとなった。 |
| 11月には骨折した船木誠勝の代打として東京ドーム大会「U-COSMOS」で、モーリス・スミスと異種格闘技戦で対戦。 |
| 5ラウンドでKO負けを喫するが、周囲から絶賛を浴びるただし、鈴木は後に、「実はビビっていた」と述懐している。 |
| 周囲が手放しで褒める中、そんな鈴木の内心を見抜いていたのは前田日明ただ一人であった。 |
| この試合が鈴木の格闘技人生において大きなターニングポイントとなった。 |
| その後にスミスに雪辱を果たし注目される。 |
| 1990年末から1991年初頭にかけてUWF分裂騒動が起き、鈴木は盟友の船木らとプロフェッショナルレスリング藤原組へ参加。 |
| 1990年4月1日、SWSとの提携で行われた神戸ワールド記念ホール大会におけるアポロ菅原戦は、アポロ菅原サイドがプロレスの定義を越えるセメント行為を仕掛け参考文献週刊プロレス別冊2008夏季号鈴木みのる風になれ〜SUZUKIMINORU20×2thBirthdayParty〜P.59「神戸事件の夜、ミナミのスナックで…」(元週刊ファイト編集次長、波々伯部哲也による出筆)より、それに対した鈴木がリング上で激怒し泥試合に、結局菅原がリングを降りて試合放棄、鈴木の勝ちとアナウンスされる船木がかつて担当していた「プロレス格闘技DX」のコラムによれば、当日の試合後、鈴木は控え室で泣いていたという。 |
| またこの興行は、北尾光司がプロレス史上に残る「八百長野郎」事件を起こしたことでも知られている。 |
| 1991年7月、東京ベイNKホール大会における佐野直喜戦は、佐野が鈴木のスタイルに適応したこともあり大きな反響を呼んだ(30分時間切れ引き分け)。 |
| 1992年10月の東京ドーム大会ではソウルオリンピックレスリング金メダリストのゴベリシビリ・ダビッドと対戦、裸絞めで勝利。 |
| 藤原組はカール・ゴッチを顧問として据えており、ゴッチが直接指導することもあったため、ゴッチに傾倒したのもこの時期である。 |
| アメリカ人選手がゴッチのレクチャーを受けた際、「痛い、これじゃ鈴木じゃないか」とクレームをつけると、「私が鈴木であり、鈴木が私なのだ!」と返答したこともあるなど、ゴッチもまた鈴木に大きな期待を寄せた。 |
パンクラス時代
| 1993年1月に船木と共に藤原組を離脱、同年8月パンクラスを旗揚げ。 |
| 11月の神戸大会ではモーリス・スミスとキックボクシング・ルールで対戦、KO負けを喫するも、1994年5月に行われた武道館大会のリベンジマッチでは腕ひしぎ十字固めで勝利し、U-COSMOSから5年越しの雪辱を果たした。 |
| 1995年5月のNKホール大会ではケン・シャムロックを破り、第2代キング・オブ・パンクラシストとなった。 |
| しかし、同時期に台頭してきたブラジリアン柔術の技術を導入しようと試行錯誤を試みる船木を「ツキハギだらけ」と公然と批判。 |
| この時期から船木に対する反感を露にするなど、盟友の船木とソリが合わなくなっていた。 |
| 同年9月の日本武道館大会では、バス・ルッテンを相手にキング・オブ・パンクラシスト初防衛戦を行うが、フロントチョークスリーパーで敗退王座から転落。 |
| 1996年1月、ルッテンが負傷により王座を返上し、空位になったキング・オブ・パンクラス王座の暫定王者決定戦をフランク・シャムロックと行うが敗退する。 |
| 以降、首の負傷(ヘルニア)が原因で連敗を重ね、6月にはデビュー半年の近藤有己にまで敗退。 |
| 船木からは「もう両雄ではない」と見切りをつけられてしまう。 |
| 同年10月より長期欠場した。 |
| 1997年5月にジョエル・サトゥン戦で復帰。 |
| 続くジャグジット・シン戦は、21秒で勝利したが、7月には負傷が再発し再び欠場。 |
| 以後、山宮恵一郎や、冨宅飛駈などに敗北。 |
| この頃の鈴木は、リングスとパンクラスとのトラブルの発端を生み出し、リングスの前田日明に挑発されたり(鈴木は黙殺)、当時シュートボクシングに在籍していた村浜武洋に「(言動が)ダサい」とインタビューで発言され、当時蜜月だったフリーライターの安田拡了経由で村浜に圧力をかけるなど、トゲトゲしい言動が目立っていた。 |
| ほぼ1年の欠場を経て、1999年に唯一行われたパンクラス公式戦である菊田早苗戦はなす術なく敗北。 |
| 2000年9月のデニス・ケイン戦では、試合中に腰痛が再発しギブアップ負け。 |
| その後は「キャッチレスリング」という組み技限定ルールとエキシビションを中心に活動。 |
| 2002年6月にはDEEP2001に出場し、ルチャドールのエル・ソラールと対戦するが、試合中のアクシデントで(金的蹴りを食らい)反則勝ち。 |
| DEEP2001で愛弟子である窪田幸生に勝利した元リングスの坂田亘に「横浜の大将」とリング上で挑発されたり、パンクラスのリング上で猛威を奮っていたGRABAKAの郷野聡寛に「美濃輪とやるのは早い」と発言したことに対してリング上で「目をさましてくださーい!」と皮肉混じりにアピールされた。 |
| 指導者としても「柔術が嫌いだから」という個人的な理由で「出稽古禁止」などのルールを設け、ますますパンクラスとその他の総合格闘技団体との技術的なギャップを広げる原因を作ったことから、引退していた船木にも「鈴木を切った方がいい」と言われてしまう。 |
| 2002年、パンクラスのリングで獣神サンダー・ライガーと対決し勝利する。 |
| 本来はライガーではなく、新日本時代前座で激闘を繰り広げてきた佐々木健介と対決する予定だったが、同年9月に健介が負傷し、試合出場が不可能に。 |
| さらに健介は新日本フロント陣と対立し、結局退団してしまう。 |
| 健介戦が流れ「もうやめようかなぁ」と思っていた鈴木に、ライガーが「俺じゃダメか?マスク脱いででもやる」と強烈にアピール。 |
| 鈴木は心を打たれたと後に語っている。 |
| また、負けたライガーの評価がむしろ上がったことに、「対相手」だけではなく「対客」というスタンスもあるプロレスに再び興味を持った。 |
プロレスへの再復帰
| ライガー戦を最後に、パンクラスを含めて総合格闘技の試合は行っていない(エキシビション・マッチ=非公式試合は有)。 |
| この頃にはハイブリッド・ボディと決別し、プロレスラーらしい脂が乗った体型に変化していた。 |
| なお、本文中で名前が挙がった選手のほか、セーム・シュルトやガイ・メッツァーらとの対戦経験がある。 |
| パンクラスの新ブランドである、プロレス部門「MISSION」を立ち上げ、2003年6月13日、日本武道館での成瀬昌由戦より古巣の新日本マットに参戦。 |
| 2004年にはIWGPヘビー級王座を懸けて健介と対戦した。 |
| 2004年4月25日、プロレスリング・ノアの日本武道館大会に、IWGPタッグ王座のパートナー高山善廣のセコンドとして初登場。 |
| 同年7月10日に行われた東京ドーム大会で初参戦を果たし、2005年1月8日の武道館大会では、小橋建太とGHCヘビー級タイトルマッチを行う。 |
| 敗戦後、不敵な笑みを浮かべながら「おもしれえ」と何度も呟き、以後2005年4月からノアに継続参戦する。 |
| 2005年6月18日には、シングル戦以来お互いに興味を持った丸藤正道と共に、スコーピオ、ダグ・ウィリアムス組が持つGHCタッグ王座に挑戦し奪取する。 |
| その後は丸藤を正パートナーとして、「ベルトには興味が無いが、ベルトで面白いことをする」と宣言し、イギリスでの防衛戦を成功させた。 |
| しかし、10月28日に挑戦者として迎えた森嶋猛、モハメド・ヨネ組に奪取されてしまう。 |
| なおヨネとはその後シングルマッチを行い、ヨネに関しては「歯ごたえがある。 |
| またやってみたい」という発言し、ある程度実力は認めているようだが、森嶋に関しては「暗い」と発言。 |
| ノア所属の秋山準との初対戦で秋山を締め落とし失神に追い込んで以降、鈴木は「世界一性格の悪い男」、秋山は「NOAH一性格の悪い男」と称され、キャラもかぶっていることからお互いに舌戦を繰り広げ、試合が組まれればえげつなく攻め立てる関係と発展していた。 |
全日本プロレス参戦
| 2006年には佐々木健介20周年自主興行に参戦。 |
| 全日本プロレス所属選手の不甲斐なさに吼え、それでも絡んでこない全日本に罵声を浴びせたが、怪我欠場中である本間朋晃が反応したことで全日本参戦へのきっかけを作り上げ、同年3月全日本大田区体育館大会で、チャンピオン・カーニバル参戦に向け全日本内外の選手が続々と名乗り出る中、疾風のごとき速さでリングに現れ、当時の三冠王者小島聡を背後からスリーパーで奇襲し、衝撃的な全日本参戦表明を行い、2006年4月以降は全日本を主戦場とした。 |
| 全日本では東京愚連隊のNOSAWA論外が勝手に『みのる軍団』を名乗ったりと、嫌々そうな顔をするものの、実は楽しんでいる姿も見られる。 |
| なお、みのるは「NOSAWAはパシリだ」と言っており、論外が『みのる軍団』と言うたびに「『鈴木みのるwith東京愚連隊』だ」と修正している。 |
| 同年6月23日にはメカマミーと戦う(ウルティモ・ドラゴン主催興行)。 |
| 当初は記者会見などで「メカ」という存在を否定していたが、試合の終盤にセコンドから奪ったペットボトルの水でショートさせ、スリーパーで「機能停止」させた。 |
| 9月3日の全日本札幌メディアパーク・スピカ大会で太陽ケアを破り、三冠ヘビー級王座を奪取(第35代)。 |
| 12月12日のリアルジャパンプロレス後楽園大会では、初代タイガーマスクとシングルで対戦し勝利。 |
| 2007年1月4日の新日本東京ドーム大会で永田裕志とシングルマッチ(三冠統一ヘビー級王座防衛戦)を行い、スリーパーホールドで勝利。 |
| 2月17日、全日本両国国技館大会で小島聡を破り、三冠王者として3度目の防衛を果たした。 |
| 3月からのチャンピオン・カーニバルを、「三冠王座時期挑戦者決定戦」などと揶揄し(自身が当時三冠王座だったため)出場拒否をしたが、TAJIRIの挑発を受け一転して出場を宣言。 |
| 小島・川田利明・RO'Z・TAJIRIと戦ったが、1勝2敗1引き分けという、不本意な戦績で幕を閉じた。 |
| 12月24日には、ZERO1-MAXに初参戦。 |
| 2008年1月26日の大阪大会を最後に全日本を離脱したという噂が流れていたが、3月1日の両国大会ではテレビ解説者として登場。 |
| 試合後、チャンピオン・カーニバルへの参戦を表明し、結果は西村修とジョー・ドーリングに敗れたものの、優勝者でもある諏訪魔、そして佐々木健介から初勝利を収めるなど充実した戦いぶりを見せつけた。 |
| 「もう一度この団体のてっぺんに行く」と宣言し、NOSAWA論外・MAZADA・TAKEMURAと共に「GURENTAI」を結成した。 |
| 2009年8月30日の全日両国大会で、プロレス復帰した船木とタッグマッチで対戦(パートナーは鈴木が蝶野正洋、船木が武藤敬司)、9月26日横浜文化体育館大会ではシングルで対戦し、感情むき出しで船木に突っかかり、最後は鈴木が制止に入ったレフェリーを突き飛ばし反則負けを取られる。 |
| 2010年3月22日に両国大会では「金網マッチ」で、船木と再戦したがレフェリーストップによるKO負けを喫した。 |
| 同年3月21日にプロレスリング・ノアの杉浦貴が、GHCヘビー級選手権10度目の防衛戦の試合後バックステージインタビューで次期挑戦者に鈴木を逆指名。 |
| 3月27日NOAH東京・ディファ有明大会の6人タッグマッチで対戦し、杉浦をパイルドライバーで撃破した直後に約4分近くに渡って杉浦にマイク越しに自分の「プロレス感」をぶつけた3月11日の「東日本大震災」で、鈴木も含む全日本プロレスの選手が石巻への移動中のバス車内で被災している、また鈴木は「プロレスで(被災者にプロレスを見てもらって)勇気を与える」という考えを持っているため。 |
| 鈴木自身はバックステージインタビューで「(一連の行動について)言いたくない、」と言及を避け、18日付けで更新された公式ブログには、「(一連の行動について)今何かを話しても、」と、あえて曖昧なコメントを公開した。 |
そしてまた、新日本プロレスへ~現在
| 5月の福岡における「小島軍(仮)クーデター事件」後、「鈴木軍(仮)」のボスとしての初の試合が、6月18日の大阪府立体育館大会で行われ、鈴木は元WWEファイターランス・アーチャーと組み、真壁刀義、小島聡組と対戦。 |
| 鈴木は、里村明衣子と組み、高山善廣、栗原あゆみ組とのミクストタッグマッチで試合をした他、無期限謹慎中だったNOSAWA論外をリングに上げ(NOSAWA1人で、KIKUZAWA、高山、鈴木の3人と続けてシングルマッチを行う「3人掛け」をその場で組み)、NOSAWAのプロレス界復帰の後押しをした。 |
人物
| 普段は黒のショートタイツに黒のリングシューズといういでたちであるが、パンクラス時代から現在に至るまで、ここ一番の大舞台では白のショートタイツを着用する(近年では先述のパンクラスでのライガー戦、ノアでの秋山戦、全日本での武藤戦など)。 |
| 白のショートタイツについては、一時期は本人も「願掛け」のように縋り、本人いわく「わけのわからない試合でも着用していた」が、高橋和生に、「昔は特別な時にしか履いていなかったものを、特別ではない時も履いているのはカッコ悪いですよ」と指摘されていたことを語っている参考文献週刊プロレス別冊2008冬季号新生UWF証言集インタビューP.75より。 |
| 2005年7月18日のノア東京ドーム大会に息子を連れてきたり、「息子に自慢するから」とノアの5周年記念パーティでネブ博士と写真を撮ったりしている。 |
| 中村あゆみの大ファンであり、入場テーマ曲は中村あゆみに直接製作を依頼したオリジナル曲『風になれ』であるそれ以前は同じく中村あゆみの楽曲「BROTHER」「太陽の光の中で」を使用していた。 |
| 2006年5月21日に参戦した、全日本後楽園ホール大会からは、ニューバージョンの『風になれRough-Mix』を使用している。 |
| 2007年東京ドーム大会で永田と対戦したときも2番のサビでリングインしたが、解説の高山が実況アナウンサーから「今日の試合はどう御覧になりますか?」と聞かれたときに「それよりもさぁ、2番の歌詞って『駆けて行け』なんだね」と呑気に答えていた。 |
| 最近は役者としてテレビドラマや映画に出演するようになってきたが、“役者・鈴木みのる”について本人は『週刊プロレス』2008年4月16日号掲載の連載コラム「鈴木みのるの独り言」にて、「大根役者だな〜」とダメ出ししている芸能活動はサンミュージックプロダクションが提携している。 |
| 東京スポーツのインタビュー東京スポーツ2009年5月14日付「レスラー、格闘家のあんな話・こんな話豪傑列伝」第4回によれば、元々実家が海に近いことから子供時代は兄弟でよく釣りに出ていたとのことだが、本格的に趣味としてのめりこみ始めたのは「28歳の時にパンクラスで大きなケガをして、ついでに離婚もして(笑)。 |
主な得意技
| 「ゴッチ式」とあるが、開発者はカール・ゴッチではなく、鈴木みのる本人であると週刊プロレスで述べている同誌連載のコラム「鈴木みのるの独り言」や、2008年に出版された週刊プロレス別冊冬季号「新生UWF証言集」のインタビューなどでも発言している。 |
タイトル歴
| 5度目の防衛戦は高山が脳梗塞からの復帰のめどがたたず、王座を返上しなければならない危機となっていたが、高山がパートナーの座を佐々木健介に譲り、これを新日本側が認めたため、返上はなく(実際には高山&鈴木組が一旦返上→鈴木&健介組が暫定王者、という扱いだったという説もある)、防衛戦が行うことができた。 |
パイルドライバー
| 興行収益は、2011年7月7日付けの鈴木の公式ブログ |
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1968年
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鈴木 みのる(すずき みのる、本名:鈴木 実... |
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1988年
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飯塚孝之戦でデビュー |
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