| 2歳年下の弟・章仁は主に二塁手として横浜高、法政大学、三菱ふそう川崎硬式野球部でプレーした。 |
| 鈴木は、一時期は2人で生活を共にしていた。 |
| 浜松市立南陽中(浜松シニア)から横浜高校へ入学。 |
| 入学直後から4番を打ち、2年生の夏()に甲子園に出場。 |
| 高校通算39本塁打を記録するなど当時は長打力が注目されていた。 |
| にドラフト4位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)に入団。 |
| 『ドカベン』に憧れ捕手をしていたが、肩を故障し外野手に転向。 |
| 守備に難があり、肩も弱かったが、打撃を買っていたので、横浜高校の渡辺元智は鈴木を使い続けた。 |
| プロ入り後も、特に全盛期は内角球をさばく技術も高く評価されていた。 |
| プロ入り直後のから徐々に打撃が開花。 |
| 1993年にはシーズンを通して二軍の4番を打ち、打率.280、9本塁打、47打点という結果を残した。 |
| 翌もリーグ3位の打率を残し、年間満塁本塁打3本を記録。 |
| この年は球団新記録となる110得点を残すが、緒方孝市(広島)の111得点に及ばず、リーグ最多得点はならなかった。 |
| しかしながら安打数、打点数などでは自己記録をマークしている。 |
| しかし翌には攻撃型の2番という同監督の新構想に沿って開幕から2番打者を任され、再び打撃不振に陥った。 |
| レフトのポジションは佐伯貴弘に奪われ、横浜高校の後輩・多村仁の台頭でその存在感が薄れた。 |
| 低迷が長期化した鈴木はこの年を境にして出場機会を大きく減らした。 |
| 守備力を重視する牛島和彦が監督に就任した、中日との開幕戦で9回裏無死に立浪和義の打球を後逸するというボーンヘッドを犯してしまう(記録は三塁打となり、チームはこの後アレックス・オチョアにセ・リーグ初の開幕戦サヨナラ満塁本塁打を浴びて敗戦)。 |
| その後も拙守や打撃不振が続いたことや、堅実な守備を買われた小池正晃がレフトに定着したためスタメン出場が激減した。 |
| シーズン終了時の打率は.215と自己最低と言える成績だった。 |
| なお、チームは借金1ながら4年ぶりの3位となった。 |
| 再起を期した、肩を痛めるアクシデントが重なり、開幕は二軍スタートとなった。 |
| しかし二軍では満塁本塁打を放つなど打率.386をマークし、5月11日に一軍に合流した。 |
| 復帰後は主に左の代打の切り札や指名打者として起用された。 |
| 6月15日のロッテ戦(千葉マリンスタジアム)には5番・DHで先発出場、第1打席に久保康友投手から先制点となる本塁打をライトスタンドに放った。 |
| 7月11日の札幌ドームでの巨人戦でも、9回表に交代したばかりの前田幸長から勝負を決める本塁打を放った。 |
| その後も左の代打要員として活躍し、代打時の打率では.380を記録した。 |
| そしてこの年のオフに、プロ野球史上野手では第2位の減俸となる1億3,000万(59%)ダウンの9,000万円で契約を結んだ。 |
| 牛島時代の2年間は守備力を重視するチーム方針もあり、代打、もしくは交流戦での指名打者に出場機会がほぼ限定されていた。 |
| 本人の希望により、から背番号を入団当初につけていた51番に戻すことになり、7番は巨人から移籍した仁志敏久内野手に譲ることになった。 |
| また、登録名を「鈴木尚」とすることに決定した2007年に登録名が「鈴木尚」となったが、「すずきたか」と呼ばれることは少なく、「すずきたかのり」「たかのり」とアナウンス、コールされる。 |
| また、1999年も一度、登録名を「鈴木尚」にしていたが、こちらも同様にコールされていた。 |
| なお、2007年から巨人の鈴木尚広が鈴木誠の入団で「鈴木尚」と表記されるようになったため紛らわしくなった。 |
| 多村の退団もあり、2007年は若手との熾烈なレギュラー争いに加わることになった。 |
| 開幕後の4月こそ3割を打ち黒田博樹(広島)から決勝本塁打を放つなど活躍を見せる。 |
| しかし5月以降は調子を落とし、6月はノーヒットで終わるなど不振を極めた。 |
| そして8月には一旦登録を抹消された。 |
| 最終的な成績は打率.232、3本塁打とレギュラーを奪うことは出来なかった。 |
| シーズン終了後3,500万円(39%)ダウンの5,500万円で契約を結んだ。 |
| 一時は2億円を超えていた年俸も2年で4分の1にまで激減した。 |
| 2009年3月22日に開催された横浜スタジアムでのオープン戦(対巨人戦)で引退試合が行われた。 |
| 鈴木は3回裏に仁志の代打として現役時代の背番号51のユニフォームを着て登場、セス・グライシンガーからライトへ本塁打を放ち、有終の美を飾った。 |
| セレモニーでは高校時代も含めて21年間プレーした横浜への愛着やファンに対する感謝の気持ちを述べ、最後に「今日は一日、選手に戻れて幸せでした。 |
| 18年間、本当にありがとうございました」と締めくくった。 |
| からは同球団打撃コーチを務めるが、10月31日に同年限りでコーチ職を退任。 |
| 今後はNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティで活動予定http://www.sanspo.com/baseball/news/101031/bse1010310503000-n1.htm。 |