| 幼少の頃は、長身だが色白で大人しく軟弱ともうつけ者とも評される性格から、「姫若子」と揶揄されていたという説が有る。 |
| 初陣の長浜の戦いの際、家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方と大将の行動を聞いたという逸話が有る。 |
| 秦泉寺豊後は「槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの」と答えた。 |
| そしていざ戦になると元親はその通りに行動し、敵兵を見事に突き崩し、鬼若子と賞賛されたといわれる。 |
| なお初陣の2日前は、織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで破った日である。 |
| 土佐一国を統一する大名に成長し、土佐の出来人と呼ばれた。 |
| 織田信長は元親をあまり高く評価しておらず、慣用句の「鳥無き里の蝙蝠」をもじって、「あれは鳥無き島の蝙蝠」と揶揄したと伝えられる。 |
| 家来に対して、「一芸に熟達せよ。 |
| 多芸を欲ばる者は巧みならず」と言っていたとされる。 |
| 土佐領内で禁酒令を出していたにも関わらず、酒を城内へ運び込ませていたことがあった。 |
| これを福留儀重に厳しく諌められて、以後改心したという。 |
| 土佐を統一した後、天正5年(1577年)、阿波の雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語った。 |
| 住職は「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と元親に説いたが、元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。 |
| いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えた。 |
| 豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。 |
| その時秀吉から饅頭をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。 |
| それを見た秀吉から「その饅頭をどうするつもりか」と尋ねられると、「太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます」と答えた。 |
| 秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。 |
| 山崎の戦いの後、斎藤利三の娘である福(後の春日局)を岡豊城でかくまったとされる。 |
| 天正16年(1588年)4月に秀吉が聚楽第で宴会を開いた時、秀吉に「今から四国の覇者を望むか。 |
| それとも天下に心を賭けたるか」と質問されると、「天下に心を賭け候」と答えた。 |
| すると秀吉は、「貴殿の器量で、天下への望みはかなうまい」と返すが、「私は悪しき時代に生まれきて、天下の主になり損じて候」と返したという。 |
| 後継者として期待していた信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにした。 |
| 朝鮮出兵の際、泗川城で垣見家純に対し鉄砲狭間の高さの指導をした。 |
| 敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈ったが、全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、半分は残してやれと命令した。 |
| 戸次川の戦いで信親が戦死した事を知り、自分も死のうと思ったが家来に諌められている。 |
| その後、秀吉から大隅一国を加増するとの話があったがこれを固辞している。 |
| 『甲陽軍鑑』にも徳川家康・赤井直正らと共に「名高キ武士」として元親の名が挙がっている。 |
| NHK「BS熱中夜話」で、戦国武将の回で行われた「大河ドラマで主役をやってほしい戦国武将」と題したアンケートで第1位に選ばれた。 |
| 一条氏の臣従時代に寺社奉行であった関係からか、熱心に寺社復興を行っており、四国統一戦の最中にも讃岐国の寺院を復興させるなど、手厚く僧侶を保護しており、谷忠澄や非有など神官・僧侶出身の者が家臣に抜擢される例も多かった。 |
| 土佐統一を果たした年、37歳の若さで「雪蹊恕三(雪渓如三)」と法号を称している。 |
| 「雪蹊」には徳のある人物には多くの人が自然に帰服してくる、そして「恕三」には広く大きな心で事に処せば、前途に万物が生じるという意味が込められているという。 |