| 天理高校から社会人野球チームクラレ岡山を経て、のドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けるがこれを拒否。 |
| 翌のドラフトで南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り。 |
| 1年目から俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現し、2年目のにレギュラー定着。 |
| 打率3割、31本塁打、120打点を記録して打点王。 |
| 同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。 |
| この頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王に協力を頼んで「ヒットの延長がホームランなんだ」と2人で説得を図ったほどだった『門田博光の本塁打一閃』P107。 |
| 同書によると、大阪球場のオープン戦でのことで、自説を撤回しない門田に二人とも呆れていたという。 |
| 「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。 |
| 怪我からの復帰後は脚力が大きく衰え、しばしば「ライトゴロ」を記録するほどで、DHとして出場することがほとんどになった。 |
| 新人時代に強肩ぶりを誇った肩も著しく衰え、打撃以外の守備・走塁のプレーは到底プロレベルとは呼べないもので「ただバットを力一杯振り回すだけの選手」との揶揄の声もあった。 |
| 珍プレー番組でも「ホームランを打たなければただのおっさん」と表現されたが、ホームランに美学を求める門田自身は「そうですねえ」と納得していた。 |
| 南海時代末期には加藤英司がDHに入ったり、オリックス時代には石嶺和彦がDHに入ったために門田が守備に就くこともあったが、その鈍足・弱肩から守備範囲は相当狭くなっていた。 |
| だが、88年の球宴では指名打者部門が設置されておらず秋山幸二・平野謙と共にパリーグ外野手部門でファン投票選出され、狭く外野手の守備力の需要が必ずしも高くないナゴヤ球場での第2戦に3番右翼手で先発出場。 |
| 門田より22歳下のセリーグ先発2番であった立浪和義が門田より17歳下のパリーグ先発投手阿波野秀幸から打った打球を捕球、ライトフライに仕留めている。 |
| しかし打撃は衰えを見せず、も40本塁打で本塁打王。 |
| 8月26日の西武ライオンズ戦では史上24人目となる2000本安打を達成。 |
| は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王、さらにMVPに輝く。 |
| 40歳で44本塁打は日本初の快挙。 |
| この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。 |
| 40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。 |
| その後、42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。 |
| この記録は、2010年42歳を迎える楽天の山崎武司が更新している。 |
| 引退時に本塁打を奪った投手の数が184人は王貞治の183人を抑え、2003年に清原和博に抜かれるまで1位だった。 |
| 現在もパ・リーグ記録や同一リーグでの日本プロ野球記録である。 |
| 無理にパワーをつけようとして過度の食事を摂ったことで、現役時代から体調不良に悩まされた。 |
| ある日、自宅で休養していたところ、突然脈拍が乱れ、体温が急速に下がっていくのを感じた。 |
| 這いつくばりながら門田は外に出て、太陽を浴びると何とか持ち直した。 |
| 「あの時晴れていなければ、自分は死んでいただろう」と門田は述懐している。 |
| 2005年に小脳梗塞を発症し30日間入院したが、幸い後遺症が出ることもなく退院した。 |