| 15歳の時(1866年)に王の実父である興宣大院君(以下、大院君)の夫人閔氏の推挙で王宮に入った。 |
| 閔妃が王妃に選ばれたのは、それまで60年間にわたって王の外戚として権勢を誇った安東金氏の政治的影響力をそぐための人選だったとされるが、その方策は裏目に出た。 |
| 高宗が政治と妻に全く関心を持たず、関心が深いのは専ら多数の宮女や妓生達を相手にした漁色と酒といった放蕩三昧のみという愚昧な人物であった『朝鮮紀行』(イザベラ・バード著、時岡敬子訳)における記述(p.441-)「王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。 |
| そしてその傾向は王妃の影響力がつよまって以来ますます激しくなっていた。 |
| 高宗に関しての記述はMackenzie,FrederickArthur(1869-1931)執筆の''ThetragedyofKorea''を参照.邦訳は渡部学訳注(平凡社)の『朝鮮の悲劇』を参照。 |
| 高宗が愛人である李尚宮との間に長子である完和君をもうけると、祖父の大院君は喜び、完和君を王世子(世継ぎ)にしようとした。 |
| 閔妃は急いで自身の子を出産し、その子(純宗)を王世子とするため、宗主国である清に側近を派遣して賄賂を贈り、自身の子を嫡子として承認(冊封)してもらうことに成功した崔基鎬『韓国堕落の2000年史』。 |
| 世継ぎ問題など、大院君と権力争いをしていた閔妃は高宗が成人し親政をとるようになると、1873年、大院君追放の指揮を裏で執り行い、大院君とその腹心の部下たちを失脚させた。 |
| そして自分の一族(閔氏)を高官に取り立て、政治の実権を握った。 |
| 大院君はその後京畿道楊州に隠居させられたが、閔妃の存在を国家存続を脅かすものとして政局復帰、閔妃追放の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にもなった。 |
| 閔妃と大院君の権力闘争は敵対者を暗殺するなど熾烈なものであった。 |
| 閔妃は「まず閔妃一族の栄達をはかる為に、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅し、大院君が生命をかけて撤廃した書院や両班の特権を復活させるため彼らを煽動し、儒者にへつらい、大院君系の人を根こそぎ追放、流刑、死刑にし、処世の改革を破壊、復元(金熙明『興宣大院君と閔妃』)」したとされる。 |
| 大院君が失脚した当初、閔妃は開国政策をとり、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど積極的な開化政策を行った。 |
| 日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化に着手したが、従来の軍隊(旧式軍隊)が放置され、また賃金未払い問題なども発生し、新式軍隊に対する不満がたまっていった。 |
| そこに開化政策に不満を持つ大院君等の勢力が合わさり、1882年、朝鮮の旧式軍隊が閔妃暗殺を目論んだ(壬午事変)。 |
| そのさい多くの閔妃派要人や日本人が殺され、日本大使館は焼き討ちにされたが、いち早く事件を察知した閔妃は、侍女を自らの身替りとして王宮を脱出し、当時朝鮮国内に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱した。 |
| このクーデターを指揮していたとして、大院君は清に連行され天津に幽閉された。 |
| 高宗の嘆願・朝貢も効果なく、幽閉は3年間続き、帰国したのは駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共にであった。 |
| この当時の閔妃は巫堂ノリという呪術儀式に熱中し、国庫の6倍以上にあたる金額を布施により国費を浪費している。 |
| これは法外な額であり、宮廷の役人は民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈っていた。 |
| また庶民が苦しい生活をしている中、毎晩遅くまで、俳優や歌手を宮中に招いて遊興しており、起床はいつも午後で、そのため宮中の空気は「混濁腐敗」していたとも言われる片野次雄『李朝滅亡』。 |
| 大院君が天津に幽閉されると閔妃は親日的政策から、次第に清国に頼る事大主義に路線変更していった。 |
| そのような状況を見た開化派の金玉均らは、閔妃を追放しない限り、朝鮮の近代化は実現しないとして1884年12月、甲申政変を起こした。 |
| それにより一時期政権を奪われるが、袁世凱率いる清軍の力を使って政権を取り戻し、開化派の政権は3日で崩壊した(1894年、金玉均は閔妃の刺客、洪鍾宇により上海で暗殺された)。 |
| 1885年になると、ロシアの南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親露政策もとりはじめる。 |
| 1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、日清戦争の原因と戦場になった。 |
| 日清戦争後、勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、閔妃の勢力は衰退していく。 |
| そのため閔妃は、親露政策をさらに推し進め、7月6日にロシア軍の助力を得て権力奪還に成功する。 |
| この一件後の反閔妃派の不穏な動きを察し、反対勢力(訓練隊等)の武装解除等を行ったアジア資料センターレファレンスコード:B03050001800。 |
| 閔妃の政策は大院君への怨念ともいえる姿勢で貫かれており、これらが原因で大院君に代表される反対派勢力による反感を買うことになる。 |
| 閔妃の動きは閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国から警戒され、1895年10月8日早朝、景福宮に侵入した武装組織によって暗殺された(乙未事変)。 |
| この事件は朝鮮が親露に傾くことを「東洋の危機であり、日本の危機」小早川秀雄手記『閔妃暗殺』であるとして考えた朝鮮公使の三浦梧楼らが主導し海野福寿『韓国併合』1995年、岩波新書、p.100,p.101、原田敬一『日清戦争』(戦争の日本史19)2008年、吉川広文館p.286、山田朗『世界史の中の日露戦争』(戦争の日本史20)2009年、吉川広文館p.38,p.39など、李周會や禹範善などの朝鮮人らも参加して。 |
| アジア歴史資料センター「朝鮮事変ノ公報ト称スル書類ニ関シ京城駐在一等領事内田定槌ヨリ報告ノ件」レファレンスコードA04010025000明治29年5月19日付公信第98号。 |
| 高宗實錄34卷,33年(1896丙申/대한건양(建陽)1年)2月11日(陽曆)6번째기사。 |
| GK17289_00I0006韓国官報資料請求番号 奎17289GK17289_00I0006 開國五百年十一月十四日 號外1.裁判宣告書。 |
| 発生したクーデターであるとされる。 |
| 公使館一等書記官であった杉村濬は回顧録『明治廿七八年在韓苦心録』(1904年)で自らが「計画者の中心」であると述べ、閔妃を中心とする親露派を排除するため大院君や訓練隊を利用したクーデターであったと回想している金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.86,p.87。 |
| なお、三浦・杉村らは、日本国内で開かれた裁判で首謀と殺害に関して日韓外交史料第五巻韓国王妃殺害事件市川正明編原書房刊文書番号353証拠不十分で免訴となり、釈放された。 |
| 日本での裁判にあたっては、事件が朝鮮政府内部のものであること、大院君を首謀者として決着させたいことが朝鮮政府の意向として日本政府へ伝えられていたアジア歴史資料センター「十月八日王城事変ニ関スル犯罪人処分方ニ付朝鮮政府部内ノ意向」レファレンスコードB08090168700明治28年12月26日付機密第53号。 |
| 一方で、閔妃と対立していた大院君が主導していたとする説も根強く鄭容和,(文学と知性社,2004)93、名越二荒之助や中村粲などのように、閔氏一族の横暴や怨嗟の声が国中に満ちていることを憂慮していたため、朝鮮人は自ら積極的に参加したとしている名越二荒之助『日韓共鳴ニ千年史』。 |
| また、『日本と韓国』の著者であり、終戦時には全羅南道の知事であった八木信雄も、閔氏政権が朝鮮人訓練隊を解散させようとし、事件の前日の10月7日に解散通告をしてきたため、訓練隊の幹部らは閔妃勢力との決闘を決意し、閔妃の政敵である大院君の力を借りて事を進めようとしたが、これを知った三浦が岡本柳之助を大院君のところへ送り、共にクーデターを決行しようという密約を結んだと述べている。 |
| これは事件直後に京城領事館一等領事であった内田定槌の「今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるもの」という両者の計画であったとする報告と一致しているがアジア歴史資料センター「明治廿八年十月八日朝鮮王城事変之報告」レファレンスコードB08090168300明治28年11月5日付機密第36号。 |
| 、三浦自身は「(大院君は)唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない」と述べたと晩年の回顧録には記されてある『観樹将軍回顧録』(政教社、1925年)p.345-p.347。 |
| また、兪吉浚もアメリカ人牧師モールスに送った手紙に、「大院君が日本公使館に頻繁に出入りして、閔妃殺害を日本に要請したのは大きな間違いだ」と記しており、韓国の独立運動家にして大韓民国臨時政府第2代大統領だった朴恩植も閔妃暗殺犯は興宣大院君だと指摘している。 |
| 朝鮮国内では、犯人として朴銑、李周會、尹錫禹の3名が捕らえられ、閔妃殺害の謀反罪で絞首刑の判決が下っている朝鮮王国1895年(開国504年)11月14日(旧暦)官報号外「裁判宣告書」これは、被告等の供述と金召史の告発、対質陳供、李甲淳、金明濟、李敏宏の供述を証拠としている。 |
| 高等裁判所裁判長は張博、予備判事は鄭寅興、判事は洪鍾檍、書記は李徽善。 |
| アジア歴史資料センター、GK17289_00I0006韓国官報資料請求番号奎17289GK17289_00I0006開國五百年十一月十四日號外1.裁判宣告書。 |
| 禹範善は亡命していた日本において「閔妃殺害の復讐」として高永根に暗殺された『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』アジア歴史資料センター。 |
| 死後、大院君によって王后としての称号を剥奪され、平民に降格された(高宗実録巻33『高宗実録乙未(三十二)年八月二十二日』)ため、当初は東九陵の崇陵前に埋葬されたが、後に清凉里の洪陵に移され、さらには高宗没後は南楊州市の金谷洞に位置する洪陵に高宗と彼女の合葬陵として現在の洪陵 |