| 生年月日は1927年3月15日になっているが、関根によると、親の話では実際は1926年12月25日で、父親が戸籍に登録に役所に行ったが、その日、大正天皇が崩御したため役所が休みで登録できず、その後戸籍に登録していないのに気づき、1927年3月15日に戸籍に登録したので生年月日は1927年3月15日になったそうである(2007年3月13日ニッポン放送『ショウアップナイターネクスト』より)。 |
| 他に実際に出生した日と戸籍上の生年月日異なる人物は植木等関根と同じ日に生まれた。 |
| 戸籍上は1927年2月25日、王貞治、徳光和夫、高野孟ら。 |
| テレビなどで自身を紹介された時は必ず「よろしくどうぞ」と挨拶する。 |
| ニッポン放送の解説者になった当時、専属解説者が関根1人だったため、ニッポン放送で中継されるほとんどの試合の解説を関根が行っていたとされることがあるが、実際は豊田泰光も行っていた。 |
| 大洋・ヤクルト監督時代の老成した、穏やかな印象から「笑顔があふれる温厚な人物(好々爺)」と思われがちであるが、実際は若い頃から、言葉より手が先に出るという熱血漢である。 |
| 旧制日大三中・法大・近鉄で同窓となった永年の戦友である根本陸夫が、『関根は本当は絶対怒らせてはいけない奴、あの末恐ろしさは“インテリヤクザ”だよ』と生前言い残した逸話を持つ。 |
| 広岡達朗も『関根さんは怒らせてはいけない』と釘を刺していた。 |
| もっとも、若い選手たちにはその恐さが浸透していたとは言い難い。 |
| 大洋監督時代、試合前のミーティングに遅刻したベテラン選手がいたので「てめぇら、ふざけるんじゃねぇ!」と怒鳴ったところ、選手たちは恐縮せず、ただ驚くばかりであった。 |
| その後しばらく、選手間では「てめぇら、ふざけるんじゃねぇ!」が、流行語になったという。 |
| 広島コーチ時代、門限を破った衣笠祥雄を寮の玄関で待ち伏せていた逸話は有名。 |
| 説教を覚悟した衣笠に対し、笑顔で「さあ、素振りをやろうか」と笑顔でバットを渡し、夜中にも関わらず素振りする衣笠をつきっきりで見守った。 |
| 関根は「素振りさせたけど、(衣笠が)最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている(2008年9月27日フジテレビ739『プロ野球ニュース』より)。 |
| 他球団の情報を収集する「先乗りスコアラー」がまだ存在していなかった近鉄選手時代の、監督の藤田から「西鉄の選手の打撃時の特徴をまとめてくれ」と依頼され、関根は旅館に閉じこもり一晩かけてまとめあげた。 |
| この依頼、実は日本シリーズに出場する中日監督・天知俊一からの依頼で、藤田と天知が旧知の仲であったことから実現したもの。 |
| このデータは同年の日本シリーズで中日が初優勝を決めた際に大きく役立ったという。 |
| ちなみに大下弘に関しては「得点圏にランナーがいる時の大下は敬遠しろ」と警告したという。 |
| (2007年のニッポン放送日本シリーズ中継時の談話)。 |
| の球界再編騒動の際、CSの『プロ野球ニュース』で「近鉄は(プロに)ぎりぎりのチームだったから、お客さんを呼ぶことができませんでした」と発言した元巨人の大久保博元に対して「近鉄がプロにぎりぎりのチームなんて、ふざけんじゃないよ!!」と噛み付いた。 |
| このとき関根は近鉄のOB会長をしていた。 |
| 1980年代以降に書かれた野球漫画の中では温厚な人物として書かれていることが多く、この大久保怒鳴りつけ事件の後、該当漫画に対して抗議文を送るなどした者もいたという。 |
| 2000年、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に出演していた関根は、司会の島田紳助から「明らかにここ(頭)を狙ったデッドボールってありますよね?」と振られ、「ありますよ。 |
| でも頭はダメですよね。 |
| ここ(頭)から下ならいいですけどね」などと喋ってしまい、同じく司会の大橋マキから「関根さんは監督時代に、ここ(頭)から下のデッドボールを指示されたことってあるんですか?」と聞かれるとあっさり「ありますよ」と認めてしまった。 |
| これに対し紳助は「爆弾発言ですよ!関根さんは普段から本当に温厚で、いつもなら湯船に浸かっているような状態で…」と笑いを取っていた。 |
| 島田は他にも、関根から聞いた「人生1勝2敗で十分」との人生観を披露し、「そらヤクルトは強よなりませんわな」とコメントしていた。 |
| ヤクルト監督就任1年目のキャンプで池山隆寛に「いいと言うまで止めないこと」と素振りを命令するものの、命令したことをすっかり忘れてしまって関根は喫茶店に行ってしまい、池山は延々素振りをしていた。 |
| ヤクルト監督時代、いずれの年も優勝したチームに負け越す一方で2位のチームには勝ち越していたことから「優勝お助けマン」と揶揄された。 |
| ヤクルト監督時代、試合中のピンチにマウンドに赴いた際に「ここで打たれたら怒るよ」と笑顔で言いながら、あるいは投手交代でマウンドに赴いた際に、投手の足を思い切り踏みつけていたことがあった。 |
| 主な被害者は内藤尚行、川崎憲次郎。 |
| ヤクルト監督時代(1988年ごろ)、関根に交代を告げられた広沢克己は「若松さんは代打の切り札だから」と納得してベンチに引き揚げたが、打席に入ったのは長嶋一茂だった。 |
| 広沢は「なんでオレの代打が一茂なんだよ」とどうにも納得がいかなかった。 |
| 代打・一茂の理由は関根監督本人が長嶋茂雄の大ファンだから。 |
| ヤクルト監督時代、1989年の春季キャンプでテスト入団したホアン・アイケルバーガーを入団させた理由をラジオにて、「名前がおもしろくて獲ったんだよねー。 |
| なんて言ったっけ?開幕で暴投してすぐいなくなっちゃった…」と発言している。 |
| 妻との間に一男一女があったが、息子はポニーキャニオンに勤務。 |
| 1980年代後半、当時ポニーキャニオンと契約していたとんねるず・石橋貴明がテレビ番組内で関根の愛息とはたびたび仕事で顔をあわせる旨発言した。 |
| テレビ番組『タモリのボキャブラ天国』で同じ名字の関根勤と共演したことがある(作品名は「あんたも関根〜」)。 |
| VTRの内容は、本屋でエロ本を買おうとして手を伸ばした際に2人同時に同じ本を手に取ってしまい、人のよい二人がどうぞどうぞとお互いに譲り合うシーンで終わるというほのぼのとした内容だった。 |
| プロ野球解説者として出演したプロ野球中継「ヤクルト-巨人」の放送(の読売ジャイアンツ優勝決定試合)の放送終了時に「解説は関根勤さんでした。 |
| 関根さんどうもありがとうございました」とアナウンサーに言われたことがある。 |
| 関根はその時ツッコミを入れず、何事もなかったかのように「ありがとうございました」と返した。 |
| 2006年7月5日、『すぽると!』に出演した際、ソフトバンク監督の王貞治がガンで休養するニュースについての会話の中で、「これを機会に(選手には)頑張ってもらいたいですね。 |
| その後すぐに「供養と言いますか…薬です!」と慌てて言い直していた。 |
| 戦後60有余年を経た現在、球界の中でも数少なくなった戦前派とあって「太平洋戦争と野球」を語る機会が増えた。 |
| 2005年にはNHK衛星第2テレビで放送された平日の帯番組『あの日昭和20年の記憶』に出演し、東京大空襲直後に渋谷区周辺で多数の焼死体を目撃したことを語った。 |
| また、2006年10月3日にNHK総合に放送された『その時歴史が動いた・戦火をこえた青春の白球~学徒出陣前最後の早慶戦~』にゲスト出演。 |
| 自らの学生時代を語り、バットを持って歩いたところ警察官に呼び止められ「宿敵・米国産の野球をやるとは何事か!!」と怒鳴られたことを明かした。 |
| かつて『プロ野球ニュース』で一緒に仕事をした八木亜希子の大ファンで、2007年6月22日の『松本秀夫のやっぱり野球は面白い』(ニッポン放送)で次の番組(『八木亜希子と垣花正のサウンドコレクション』)の紹介に来た時は大喜びした。 |
| その後、急遽『八木亜希子と垣花正のサウンドコレクション』に顔を出し、小学校時代の失恋話を披露した。 |
| 現役時代の1955年には『ここが命の2・3(ツースリー)』という曲を作詞したことがある(歌は真木不二夫、テイチクレコードより発売)。 |
| 関根は2009年12月に放送された『プロ野球ここだけの話』(フジテレビワンツーネクスト)の中で久々に曲を聴いて「若気の至り」と反省していた。 |