| 陳羣は曹操が帝位に就くことをほのめかしたことがあるが、曹操には拒絶された(「武帝紀」が引く『魏略』)。 |
| 220年、曹丕が王位に就くと、陳羣は昌武亭侯に封じられ、尚書に任命された。 |
| このとき、九品官人法を建議し、制定させた。 |
| 曹丕が禅譲により皇帝(文帝)に即位して魏帝国が成立した際には、群臣達と共に陳羣もそれに尽力し(「文帝紀」が引く『献帝伝』)、その功績から文帝にも重用された。 |
| 官職は尚書僕射に昇進、侍中を加官された後、尚書令に転任となり、頴郷侯に爵位を進めた。 |
| 文帝が孫権を討つため広陵に侵攻すると、陳羣は中領軍を兼任した。 |
| 文帝は帰還するとき、節を与えて水軍を統率させた。 |
| 許昌に戻ると、陳羣は鎮軍大将軍に任ぜられるとともに、中護軍を兼任し、尚書の事務を取り扱った。 |
| 鮑勛という人物を推挙し、その出世を取り成したが、文帝は鮑勛を嫌い、処刑しようとした。 |
| 陳羣は司馬懿と共に鮑勛のために弁護したが許されなかった(「鮑勛伝」)。 |
| 226年、文帝が急に病に倒れると、陳羣は曹真、司馬懿らと共に遺詔を受けて後事を託された。 |
| 太子の曹叡が文帝の柩を見送ろうとしたときは、曹真や王朗らと共に、暑気を理由に取りやめさせたという(「文帝紀」が引く『魏氏春秋』)。 |
| 曹叡(明帝)の時代には、陳羣は頴陰侯に昇進し、500戸の加増を受け、領邑は1300戸となった。 |
| さらに曹休、曹真、司馬懿と共に開府を許された。 |
| 陳羣はしばらくして、司空に任ぜられたが、尚書の事務も引き続き執り行った。 |
| 侍中の呉質に讒言を受け譴責されたこともあるが、結局、陳羣に対する明帝の信任は揺るがなかった(「王粲伝」が引く『魏略』)。 |
| 明帝が始めて政務を執ったときは、上奏し、主君に追従し臣下同士で不和を生じさせる者達に用心するよう述べた。 |
| 太和年間に曹真が蜀征伐を求めたときは、陳羣は慎重に行動することを求め、明帝もそれを受けて曹真に指示を出した。 |
| 長雨が降ると、陳羣は曹真に撤退させることを求め、明帝は曹真に撤退を命じた。 |
| 明帝の公主の一人が亡くなると、明帝は悲しみ自ら柩を見送ろうとした。 |
| 陳羣は上奏し、出費の多さを理由にそれに反対したが、明帝は聞き入れなかった。 |
| 青龍年間、明帝は宮殿の造営工事に熱中したが、陳羣は多くの群臣達と同様に上奏し自省を求めた。 |
| 明帝は計画をいくぶんかは縮小させたという。 |
| これらの上奏について、上奏を出した後には草稿はすべて破棄してしまったため、当時の人は誰もその内容を知ることが出来ず、高官にありながら何もしていないと批判するものもいた。 |
| 死後、正始年間に『名臣奏議』が編纂され、陳羣の上奏の内容が明らかにされると、人々は皆感嘆したという(『魏書』)。 |
| このことにより陳羣は長者と称えられたともいう(『袁子』)。 |
| これ以前、張郃が戦死したとき、その死去を明帝のために惜しんだところ、それがあまりに過剰であったため、辛毗に批判されたこともある(「辛毗伝」が引く『魏略』)。 |
| また、かつて崔琰が処刑されたとき、多くの人はその死を惜しんだが、陳羣は崔琰が身を処すことができなかったことを批判し、崔林と論争したという(「崔琰伝」が引く『魏略』)。 |
| 236年に没した。 |
| 靖侯と諡された。 |
| 子の陳泰が跡を継ぎ、領邑を分割し一子が列侯に封じられたという。 |