| 袁紹と袁術、公孫瓚が争うようになると、陶謙は公孫瓚に呼応し、発干に出陣し、袁紹を圧迫しようとしたが、曹操に打ち破られた(魏志「武帝紀」)。 |
| 初平4年(193年)、下邳の闕宣皇帝を名乗った宗教指導者。 |
| 「武帝紀」によると、曹操には朝廷から闕宣追討の勅令が出ていた。 |
| が勢力を振るうようになると、陶謙は闕宣と結託して泰山郡の費県・華県において略奪行為を働いた。 |
| やがて仲違いを起こし陶謙は闕宣を殺害した。 |
| 同時期に曹操の父である曹嵩が陶謙の勢力圏内で殺害されるという事件が起きた。 |
| 一説には陶謙が殺害したといい、陶謙は兗州を治める勢力となっていた曹操の仇敵となった。 |
| 曹嵩殺害の経緯についてはいくつか説が有るので載せる。 |
| ;陳寿による『三国志』魏志「武帝紀」本文。 |
| 曹操の父、曹嵩は退官して一度故郷に戻ったのだが、董卓との戦いが始まると、戦禍を避けて瑯耶に逃れた。 |
| そこを陶謙が襲って殺害した。 |
| ;『三国志』魏志「武帝紀」・注『世語』。 |
| 曹嵩は泰山郡の華県に居た。 |
| 曹操は迎えを出したが、陶謙が先回りして兵を出したのでみな殺されてしまった。 |
| ;『三国志』魏志武帝紀・注『呉書』。 |
| 陶謙は、曹嵩が領内を安全に通行できるよう、、張闓を護衛につけた。 |
| しかし、泰山郡にある華県と費県の間を通行中、張闓は曹氏の莫大な財産に目が眩み、曹嵩らを殺害して財産を持ち逃げした。 |
| 曹操は陶謙に責任を取らせるため、攻め込んだ。 |
| 同年秋、陶謙は徐州へ攻め入った曹操により、領内の十数城を奪われ、彭城での大会戦や、曹仁率いる別働隊と戦った傅陽を始め、取慮、雎陵、夏丘の各地で敗退した。 |
| 陶謙は郯の地でようやく侵攻を押し留め、曹操は兵糧を切らしたために撤退した。 |
| この一連の軍事行動の中で曹操は各地で住民を殺戮し、数は男女あわせて数十万人ほどとなり、犬鶏まで残らず殺し、泗水の流れを堰き止めるほどであった。 |
| それまで中央の戦乱からの避難民で豊かとなっていた徐州は壊滅的な打撃を受けた『後漢書』「陶謙伝」による。 |
| この戦いでは公孫瓚の部将であった田楷と劉備が陶謙側に援軍に来ていた。 |
| 陶謙は劉備をひきとめ、豫州刺史に推挙し小沛に駐屯させ、丹陽兵4,000人を与えるなど厚遇した蜀志「先主伝」による。 |
| 興平元年(194年)、徐州に曹操が再侵攻し、五城は陥落、瑯耶を越え東海にまで攻め寄せた。 |
| 陶謙は郯の東に曹豹・劉備を駐屯させていたが、曹操は帰還の途中で郯を通った時に両者を撃破した。 |
| 曹操は通過した地域で多数の者を虐殺したという。 |
| 琅邪、東海の諸県を曹操が蹂躙するに任せた陶謙は一時、故郷の丹陽への避難も考えたが、曹操の本拠地である兗州で張邈・張超兄弟と陳宮らが呂布を引き入れて反乱を起こしたため、曹操の軍は撤退し、危機を脱した。 |
| しかし、陶謙は病で重篤に陥り、自らの息子陶商・陶応がそろって不出来であるという理由から別駕の糜竺に劉備に徐州を譲るという遺言を託し、間もなく死去した。 |