| 鳳凰元年(272年)秋8月『三国志』呉志「三嗣主伝」。 |
| それによると、当時の陸抗は楽郷都督の職にあった。 |
| 、西陵督の歩闡が呉に反逆して晋に降伏すると、吾彦ら諸将を率いて西陵城に急行した。 |
| 諸将らは援軍が来る前に攻城することを勧めたが、陸抗は西陵城の防衛や装備は、かつて陸抗自身が整備したため、それを攻める困難を知悉していたことから長期戦になると判断し、広大な二重の包囲陣を突貫工事で敷かせ、城内の軍と晋軍の来援に備えた。 |
| この作業は兵士に多大な苦労を強いたため、諸将からは反対する者が相次ぎ、早急に攻撃を仕掛けて落とすべきだという意見が大半を占めた。 |
| 陸抗は一度だけ攻撃を許可したが、何の成果も上げられなかったので、諸将は陸抗の命に従った。 |
| やがて晋の車騎将軍の羊祜が江陵に侵攻する様子を見せると、部将らは江陵の防衛に回ることを提言した。 |
| しかし陸抗は「江陵は防備が固く、食糧もしっかりと備わっている。 |
| もし落ちたとしても、敵はその城を維持できまい。 |
| だが西陵を奪われれば、南方の異民族にも影響を与える。 |
| そうなったときの憂慮を思えば、江陵を棄ててでも西陵にあたるべきだ」として動かなかった。 |
| 陸抗は江陵の督の将に命令して、城の周辺の水路をせき止めさせ、敵襲と味方の離反を同時に防がせた。 |
| 羊祜がその状態を利用して船を使って江陵へ食糧を運ばせようとすると、陸抗は諸将の反対を押し切り江陵の守将に命じて予め堤を切って輸送手段を断たせた。 |
| このため晋軍は船を使えず車に代えることにしたが、そのため輸送に大幅な損害を出した。 |
| この後、晋の巴東監軍の徐胤が水軍により建平に向かい、荊州刺史の楊肇の軍が西陵に至り、対峙中には叛将が出るという事態も起きた。 |
| だが陸抗はこれらの危機によく対処して防ぎきり、羊祜・徐胤の動きを部将らに封じこませる間に自らは西陵の楊肇の軍を大いに破り、楊肇の敗北を知った晋軍は西陵の救援を諦め退却した。 |
| 陸抗は孤立した西陵城に総攻撃を掛けて陥落させ、反乱を鎮圧することに成功した。 |
| 歩闡とその一族、幹部級の武将や軍官は処刑されたが、その他の数万に上る将卒は赦免した。 |
| 反乱を鎮圧した陸抗は、西陵城を修復した後、楽郷に帰還した。 |
| 大功を立てたにも関わらず、それを一切誇ることが無かったため、将士は以前にも増して陸抗を敬ったという。 |
| 陸抗は都護の職を加えられた。 |
| 武昌の左部督の薛瑩が召還されて獄に下されたという知らせを聞き、上疏して赦免を諫言した。 |
| 相次ぐ軍事行動により国が疲弊しきっていたため、陸抗は上疏して国力の回復を待つことを願い出た。 |
| 鳳凰2年(273年)春3月『三国志』呉志「三嗣主伝」、陸抗は任地において大司馬に任じられ荊州牧の職を授けられた。 |
| 鳳凰3年(274年)夏、病が重くなったとき、陸抗は上疏して、領土防衛の必要性と募兵制の現状の批判とその改革について詳細な案を述べ、国情の休まらないことを憂えた『三国志』呉志「三嗣主伝」によると、鳳凰2年(273年)秋9月に孫皓の子の11人が王に封じられそれぞれに3000人の兵士が与えられているが、陸抗はその措置も批判している。 |
| 同年の秋に死去した。 |
| 陸晏が跡を継いだが、陸抗の兵士は、兄弟の陸景・陸玄・陸機・陸雲にそれぞれ分割されることになった。 |
| 子のうち、陸晏と陸景は天紀4年(280年)の晋の呉征伐のときに戦死した。 |
| 陸機と陸雲は晋に仕え、いずれも西晋時代を代表する文学者となった。 |
| だが、陸機・陸雲が八王の乱に巻き込まれて一族皆殺しの憂き目に遭い、子孫は絶えたという。 |