| 父の陸宰が家族と共に転勤のため淮河を移動している途中、舟の中で生まれた。 |
| その後、父が京西路転運副使に赴任するが、翌年金の侵攻をうける直前に免官されたおかげで難を逃れ、故郷に無事たどり着いた。 |
| このような境遇のなか、父がその友人達とともに論じた主戦論を聞いて育ち、強い愛国心と対金強硬論をもつに至った。 |
| 20歳になり、母方のいとこである唐婉と結婚し仲睦まじかったが、なぜか母親・唐氏の気に入られずにすぐ離縁させられる。 |
| のちにそれぞれ互いに他の相手と再婚し、沈園という庭園を散歩中に偶然再会する。 |
| そこで交わした詞「釵頭鳳」は有名である。 |
| 陸游の唐婉への思いは、後年折に触れ彼女のことを追憶する詩を作るほど深いものがあった。 |
| 29歳のとき、科挙の第一段階の解試(両浙路漕試)において首席で合格したが、これが運悪く権力者秦檜の孫である秦塤を差し置いたことになり、中央試験である省試において横やりで不合格にされるという妨害を受けた。 |
| これにより科挙に及第するための資格を奪われ、エリートとしての出世の道を閉ざされた。 |
| しかし陸游は秦塤には遺恨はなく、後年陸游が四川に赴任する道中、建康に隠棲していた秦塤の邸宅を訪れている。 |
| 秦塤も滞在中の陸游一行を厚くもてなしたらしく、陸游の家族に病人が出たとき、医師を呼んだり薬を届けたりしている。 |
| 1158年に秦檜が亡くなると、34歳のとき福州寧徳県(福建省寧徳市)の主簿として、初めて出仕する。 |
| 2年後、中央に呼ばれて文書を扱う役職(勅令所刪定官)に就き、孝宗が即位すると直々に進士の資格を賜った。 |
| 金領内の民衆に決起を促す機密文書などの起草を担当したが、張浚の北伐が失敗して講和派が力を盛り返すと、普段の積極的な発言が仇となって地方に転出させられた。 |
| 隆興府(江西省)の通判(準知事)となった後、張浚の強硬論を支持していたために免官となり、故郷の近くく三山に居を構え、4年近く田舎で暮らすことになった。 |
| 1170年、虁州(重慶市)の通判に任命されたので、任地に赴くため5ヶ月かけて長江を遡った。 |
| そのときの紀行文が『入蜀記』である。 |
| 虞允文が宰相になり、政府中央で主戦論が高まると、四川宣撫使となった王炎に招かれて配下(四川宣撫使司)となる。 |
| 陸游は張りきって偵察などの任務を精力的に行うが、中央でまた講和論が強まったため王炎は中央に呼び戻され、陸游は蜀地方各地の知事代理を転々とすることになった。 |
| 四川制置使の范成大の部下となり、身分の差を越えて親しく詩を交わすなど交流したが、そのことを含め、普段の態度が周囲から放埒にすぎると非難され辞職する。 |
| このとき号を放翁とし、成都の地で寓居した。 |
| 1178年、陸游は孝宗に召還されるが、中央で重用されることはなく、結局地方勤務の提挙常平茶塩公事(専売品である茶・塩の監督官)に任命されて建寧に赴任する。 |
| 翌年撫州(江西省)に同じ職で転任すると、大規模な洪水が起こった。 |
| 陸游は自分の一存によって官有米を使い住民の救済に充てたが、その責任を追及されて免職となり、郷里に帰った。 |
| それ以後は2回の任官期間を除いて、20年近くを本格的に隠棲して生活することになった。 |
| 現存している陸游の詩はこの期間のものがほとんどを占める。 |
| 1186年、厳州(浙江省)の知事として赴任した。 |
| この期間中に『剣南詩稿』20巻を刊行した。 |
| 任期を終えると中央での職に任じられた。 |
| 孝宗としてはゆくゆくは陸游を重要なポストに就けるつもりであったらしいが、孝宗が光宗に譲位すると、やはり平生からの主戦論の直言などが災いして、「風月を嘲詠した」というよくわからない理由で罷免された。 |
| このとき書屋を「風月軒」と名付けた。 |
| のち、寧宗の代に韓侂冑の推薦によって出仕し、実録院同修撰同修国史となり、「孝宗実録」「光宗実録」を編纂した。 |
| 韓侂冑の人気取り的な主戦論に利用されたとはいえ、推挙されていたことは批判の元となった。 |
| 故郷では、晴耕雨読の日々を送った。 |
| 酒屋で大勢と酒を酌み交わしたり、豊富な知識を生かして薬を作って与えるなど、近隣の庶民と分け隔て無くつきあい、慕われていた。 |
| 念願の中原回復はかなわぬながらも、素朴で安逸な生活を送り、86歳で世を去った。 |
| 陸游の子孫の有無は不詳。 |