| 222年、蜀(蜀漢)を興し自ら皇帝となった劉備は関羽の復讐と荊州の奪還のために呉との国境地帯に侵攻してきた。 |
| 陸遜は孫権により大都督に任じられ、朱然、潘璋、宋謙、韓当、徐盛、鮮于丹、孫桓ら5万の軍を率いて劉備軍と対峙した。 |
| 諸将は古い軍歴を誇る宿将であったり、宗室に連なる身分であったりしたため、陸遜を侮るような態度をとったという。 |
| しかし、陸遜は剣に手をかけて軍令を遵守させた(『呉書』によると、諸将は出撃を主張したが、陸遜は終始慎重な姿勢を崩さなかったため、陸遜を臆病者と揶揄したという)が、孫権の上意を仰ぐようなことは決してしなかった。 |
| また、孫桓が夷道において敵に包囲されたときも、孫桓を信じて救援に赴かなかったため、孫桓に恨まれたという。 |
| 劉備は盛んに呉軍を挑発したが、陸遜は伏兵を見破りそれに応じなかった。 |
| 劉備軍の疲弊を見て取った陸遜は反撃に転じ、火攻めなどで攻撃し、退路を断って蜀軍を壊滅させ、劉備を白帝城に敗走させた(夷陵の戦い)。 |
| このときになって初めて諸将は陸遜を信頼し、また、窮地を脱した孫桓も陸遜の智謀の深さをさとって畏敬の念を表した。 |
| また、孫権も軍がそのような状況であってもなお、諸将の勝手な振る舞いを主君である自分に報告してこなかったことを評価し、陸遜に輔国将軍を加官し、荊州牧とし、江陵侯に改封した。 |
| 劉備は白帝城にとどまり、本拠を移したため、徐盛、潘璋、宋謙は孫権に上奏し、劉備を捕えるため白帝城を攻撃することを求めた。 |
| このことについて陸遜は孫権に意見を求められると、慎重論を主張していた朱然や駱統の意見に同意を示し、魏の曹丕は表向きは援軍と称して軍を進めてきているが、実は呉を攻撃することを企んでいるから、それに備えるため軍を撤退させることを求めた。 |
| まもなく曹丕は呉への攻撃の意思を示し、江陵など三方面から攻撃をしかけてきた。 |
| 敗北後に呉と和睦する意思を持つようになった劉備は陸遜に手紙を送り、蜀から援軍を江陵に送ることを提案したが、呉蜀の国交が回復したばかりであることと、蜀軍は敗北で疲れきっており、国力の回復に努めるべきではないか、と意見し、これを断ったという(『呉録』)。 |
| 劉備が死去し、劉禅が蜀の皇帝に即位すると、諸葛亮が丞相として政権を握り、呉と蜀の国交は完全に回復するようになった。 |
| 孫権は諸葛亮に手紙を送るときは、常に陸遜を通じて行い、また、自身の印璽を陸遜に預け、呉の蜀との外交文書は陸遜が添削した上で発行されるようにした。 |
| 226年春、孫権は民衆が疲弊し、耕地が放置されていることを憂い、その対策を求めた。 |
| 陸遜は上奏し、諸将に農地を開墾されるよう願ったところ、孫権はその意見を褒め、自らも実践するよう取り計らった(「呉主伝」)。 |
| 226年冬10月、陸遜は孫権に施策を上言し、寛容な政治を勧めるとともに、卑しい者達の売名目的の言葉に耳を貸さないよう願った。 |
| 孫権は陸遜の言葉に逐一反論をしたが、役人に命令して法令をすべて書き写し、郎中に命じて陸遜と諸葛瑾の元にそれを送り、加除修正させた(「呉主伝」)。 |
| 228年、孫権が鄱陽太守の周魴に対し、偽りの降伏を魏に申し出て、10万の兵を率いる曹休を石亭に誘い出させた上で、陸遜に黄金の鉞を与え、大都督に任命し、曹休を追討させた。 |
| 陸遜は自身は中央の軍を率い、朱桓・全琮にそれぞれ3万の兵を与えて左右の部隊を率いさせ、3部隊に分かれて同時に進軍した。 |
| 曹休は伏兵を配置していたものの、陸遜はそれを蹴散らした上で曹休と戦って大いに破り、追撃をかけて夾石まで軍をすすめ、1万余の兵を斬ったり捕縛し、多くの馬や兵糧を奪い、車両など兵器類1万台を手にいれた(石亭の戦い)。 |
| 曹休は賈逵や朱霊、王凌の援護により脱出することができたが、敗北の恥辱により背中に腫れ物が出来て死去した。 |
| 229年、孫権が皇帝に即位するのに伴い、上大将軍・右都護の官を授かった。 |
| その年の秋、孫権は首都を再び建業に戻し、武昌には太子孫登や皇子達を置き、尚書の役所もそのままにした。 |
| 太子の後見役のため陸遜を武昌に召し寄せ、荊州と揚州の三郡の統治、それに軍事と国事の監督を委任した。 |
| 陸遜は建昌侯の孫慮が闘鴨に熱中していたため、これを直々に注意し、また、射声校尉の孫松が孫権の寵愛をいいことに職務に怠慢であったことから、係りの役人に罰を与えるなど、皇子、公子達の教育係りも務めた。 |
| 陸遜は刑罰より礼を重んじるべきだと考えており、当時流行していた魏の劉廙の議論を批判し、その議論にかぶれていた南陽の謝景を批判した。 |
| 孫権が東方の島の経略に心を奪われ、夷州や朱崖を占領するため軍を派遣しようとしたときは、無用であると諫言したが、孫権はこれを聞かずに出兵させた。 |
| 孫権はまた、遼東の公孫淵を服属させようとしたが、公孫淵の裏切りに遭い失敗したため、報復のため遼東に親征しようとした。 |
| 「陸遜伝」では236年、孫権は自らは合肥に出兵するとともに、陸遜と諸葛瑾に襄陽を攻撃させた。 |
| 諸葛瑾は機密が敵に洩れてしまったことに動揺し、陸遜に撤退すべきではないかと意見を求めたが、陸遜はすぐには返事をせず、ただ泰然自若としていた。 |
| 陸遜は撤退の途中、白囲まで来たところで、表向きは狩猟をすると偽り、将軍の張梁と周峻に命じて江夏の新市、安陸、石陽を急襲させた。 |
| 特に石陽の人々は油断していたため、動揺した敵の将は多くの民を殺害した上でやっとのことで城門を閉ざすことが出来た有り様であり、数千人が斬られる大損害を受けた。 |
| 魏の江夏太守の逮式は軍勢を率いて、しばしば呉との国境を侵していたが、古くからの有力者である文休(文聘の子)とは不仲であった。 |
| 陸遜は自ら反乱の平定を志願し、陳表(陳武の子)の力も借りてこの反乱を鎮圧し、呉遽を降伏させた。 |
| この間、謝淵や謝宏という人物が経済や財政政策について意見を述べ、孫権から下問を受けると、陸遜は「国家の根本は民衆であるため、数年、万民たちの安寧を計り、財政が豊かになった上で再検討すべき」と論じた。 |