| 元フジテレビ社長の村上光一はアナウンサー時代の1年先輩で、フリーアナウンサーの岩佐徹と元アナウンサーで『鬼平犯科帳』などのプロデューサーを務めた能村庸一は同期である。 |
| 永島信道、浪久圭司、盛山毅は1年後輩、大林宏、野間脩平、渡辺直子、宮崎総子は3年後輩、前述の逸見、松倉悦郎、山川建夫、竹下典子は5年後輩、須田哲夫は8年後輩にあたる。 |
| 1963年にフジテレビに入社した日は4月1日ではなく3月1日。 |
| 当時のフジテレビはニッポン放送と文化放送(7年先輩の鳥居滋夫や6年先輩の山田祐嗣はニッポン放送や文化放送からの出向だった)の折半で設立されてから年月が浅かったため自社のアナウンサーが不足していて新人といえども即戦力として仕事をせよといわれたためで実際在学時代末期からアナウンサー研修を行っていたほどである。 |
| 在京キー局のアナウンス職の採用は毎年3~5人ほどだが、上述のようなフジテレビの当時の社内事情もあり、同期のアナウンサー(入社当時)は7人(男性は露木、岩佐、能村の3人、女性は4人)もいたため、例年に類を見ない異例のアナウンサー大量採用の年となった(他局ではテレビ朝日が1977年に、3年後のモスクワオリンピックを睨んで古舘伊知郎や佐々木正洋、渡辺宜嗣、宮嶋泰子ら9人のアナウンサーを大量採用したという例もある)。 |
| 『鉄人28号』のオープニングで流れていた有名なセリフ『てつじんにじゅうはちごう、ガオー』は露木の声であり、これが彼のアナウンサーとしての初仕事であった。 |
| 1965年に『小川宏ショー』がスタートした際、金がかからないという上層部の判断から男性アシスタントとして抜擢された。 |
| 1969年にフジテレビの労働組合の執行委員となった際、当時の経営陣から執行委員を辞めるよう迫られたが拒否した結果、1970年3月31日の放送を最後に「小川宏ショー」のサブキャスター降板を命ぜられた。 |
| しかし、番組終了直前にADから渡された「富士山上空で日航機がハイジャックされた」(日航機よど号ハイジャック事件)というニュース速報を見るや「ただいま日航機がハイジャックされたというニュースが入ってきました。 |
| これは当然露木の独断であったが、生放送中の発言のため撤回することもできず、上層部は彼にリポーターを任せざるを得なかった。 |
| 翌日の放送からは現場リポートという形で出演を続け、事件の収束後、再びキャスターに返り咲いた。 |
| 1972年に連合赤軍浅間山荘事件で犯人逮捕人質救出作戦が行われた2月28日、司会兼リポーターとして出演していた『小川宏ショー』がスタートした午前9時から夕方の『FNNニュース』が放送終了時刻の午後6時45分まで現場からリポートしていた。 |
| 本人の話によると「次の番組を飛ばしたから頑張ってくれ」という指示が本社から出続けたため、食事はおろかトイレにも行けず「一体いつになったら終わるのだろう…」と不安に駆られたという。 |
| 日本航空123便墜落事故の際には、通算10時間以上も報道特番の司会を務めた。 |
| 1985年8月13日の『FNNニュースレポート11:30』の放送開始直前、在京テレビ局で唯一、中継スタッフをその時点で事故現場に送り込んでいたフジテレビスタッフから生存者発見の一報が入ってきた。 |
| それを受けて露木はこの生存者発見のニュースを伝え、映像だけを見ながら原稿なしのアドリブで番組をこなした(原稿は「乗客乗務員全員死亡」という内容だったのだが、生存者発見の報に原稿を差し替える時間がなかったため、その原稿をゴミ箱に捨ててニュースに臨んだ)。 |
| このニュースの音源は2005年8月21日にテレビ東京系列で放送された『上を向いて歩こう・坂本九物語』の台詞として使われ、2005年8月12日にフジテレビ系列で放送された、日本航空123便墜落事故関連の再現ドラマ内で、当時の映像に露木本人が速報と報道特番で登場した姿がある。 |
| 逸見は東京に戻って報道特番に出演することも考えたものの「いいとこ取りになる」と考え実家に残って露木の出演した報道特番を視聴することにした。 |
| 1986年11月25日の『おはよう!ナイスデイ』の放送中に有楽町で3億円強奪事件が発生、露木は報道デスクからそのニュースを伝える事になった。 |
| 司会の桑原征平が「報道デスクさん」と呼びかけて映像が切り替わると、なんと飛び込んできたのはスタッフと談笑し、大爆笑中の露木の姿だった(全くスタジオと報道部の疎通を取れなかったという)。 |
| すかさずスタジオに映像が戻り、桑原は苦笑しながら「露木さんちょっと本番前にリラックスされていましたが」と苦し紛れの弁明をし、再び報道デスクに映像が切り替わると、先程とは180度変わった大真面目な顔をしてニュースを伝えた。 |
| 多くのフジテレビの看板番組で司会を務めたタレント・芳村真理とは1966年に芳村が『小川宏ショー』のアシスタントとして抜擢されて以降、何かと同局の大型番組でコンビを組むことが多く、私的にも親しい間柄とされている。 |
| 特に年末の『FNS歌謡祭』では1978年から関口宏に代わる男性司会者として抜擢されて以来、9年連続でコンビを組み、同番組の黄金期を共に支えた。 |
| このコンビで進行が行われた1982年の同音楽祭のグランプリに松田聖子が選出された際、号泣する聖子の姿を見て、「芳村さん、今日の聖子ちゃんには本物の涙が流れていますね」と発言したエピソードは同番組のMC史の中でも語り草となっている。 |
| アナウンス部長時代には、24年後輩の中井美穂、25年後輩の有賀さつき、河野景子、八木亜希子、26年後輩の佐藤里佳、27年後輩の大坪千夏、28年後輩の近藤サト、中村江里子、29年後輩の小島奈津子、西山喜久恵など「女子アナブーム」の主役たちの採用を決めた責任者だった。 |
| また、仕事柄で芸能関係者と交流がある彼は、新人女子アナがデビューする頃、タモリや笑福亭鶴瓶などの芸能関係者に「もうすぐ新人が世話になるからよろしくね」と毎年挨拶していた。 |
| 江頭2:50がトルコで公開全裸になって逮捕されたというニュースを取り上げた際、江頭を「国辱もの」と厳しく批判した。 |
| 『FNNスーパータイム』の最終回で、フジテレビのドラマプロデューサーが逮捕されたというニュースを伝えた際「スーパータイム最後の日に、私ども身内の大馬鹿者のニュースをお伝えしなくてはならないというのは大変情けない」と、自局の不祥事ながらも該当の社員をバッサリと斬り捨てた。 |
| フジテレビで自局の不祥事を報道することは極めて異例である(自局社員が犯した犯罪を報道しても大抵は警察発表と自局広報のコメントをそのまま流す程度であるか、あるいは全く公表しない)。 |
| 1998年4月から1年間、早稲田大学の大学院に通い、メディアと社会の関係についての講義を受講した。 |
| 政界への工作資金と報道され、当時出演していた『報道2001』を急遽降板し、前任司会の黒岩祐治と交代した。 |
| その後は2007年11月にドラマ『SP』に元総理大臣役で古巣のフジテレビの番組に4年7ヶ月ぶりに出演した。 |
| 2008年8月には『カスペ!フジテレビアナウンサー全員集合!超真剣女子アナvs男子アナ完全決着〜アナ☆ログSP〜』にもVTRではあるものの、出演した。 |
| フリー後は主に日本テレビ、TBSの番組に出演することが多く、鈴木史朗と同じTBS関連の事務所に所属している。 |
| 『今夜は好奇心!』で新人アナウンサーをテーマにした回では、「終わったことはすぐ忘れる」という名言を残している。 |