| 1970年に「屋台」がビッグコミック新人賞佳作に入選。 |
| 佳作賞金として7万円を手にするも、連載等の声が全くかからなかったため、佳作に入選した「屋台」を持ってデザイン会社に売り込みをして就職し3年間勤めた。 |
| 1975年に独立してデザイン会社「青木デザイン」を起業する。 |
| 起業当初は一人で全ての業務を行っていたが、事業拡大のために従業員を雇うようになる。 |
| 経営は順調に思えたが、数々の取引先から支払いを「もう少し待ってくれ」と言われ続け、資金繰りが苦しくなる。 |
| そんな状況にも関わらず、青木の「他者に金銭的迷惑をかけない」という信条により、従業員の給料や自社からの支払いは一度も遅れる事なくしっかりとこなしていた。 |
| 次第に状況が悪化して借金を背負い、1983年倒産。 |
| ここでの経験がその後の作品を描く上で大いに参考になったという。 |
| この期間も漫画を描き続け、実業之日本社を中心に投稿を続けるが、掲載されるには至らなかった。 |
| 1989年、「50億円の約束手形」でアフタヌーン四季賞佳作に入選、1990年に「彼岸と此岸の間で」で準入選を受賞し、同年に代表作の「ナニワ金融道」(週刊モーニング)で漫画家として45歳でデビューした、遅咲きの漫画家であった。 |
| 自らマルクス主義者を標榜し、現代社会への批判が常に著作の根底にあった。 |
| そのため右翼団体によって攻撃の対象とされていた。 |
| 日本共産党の演説会に弁士として招かれたことがあり、講演会や赤旗紙上に晩年までたびたび出ていた(が、あまりに教条的なマルクス主義論を壇上でぶったため、二度とお呼びが掛からなかったという逸話もある)。 |
| 新左翼系の都政を革新する会の支持者名簿に名を連ねることもあったが、当人は「『目的のためには手段を選ばず』ではなく、目的達成のためには手段は選ばなくてはならない」と冒険的な武力闘争を否定するなど、過激派的路線とは一線を画していた。 |
| また、マルクスとともにドストエフスキーに傾倒しており、著書ではドストエフスキーの作品についてしばしば言及している。 |
| 契約書の一字一字や畳の目の一本一本を描き込むなど、緻密な描き込みをポリシーとしていた青木雄二の「ゼニ儲け」全部教えよう―目からウロコのナニワ流金満リッチ道(2001年11月、ISBN9784415069531)。 |
| そのため、腱鞘炎になってしまい、『ナニ金』の連載終了とともに漫画家を引退したのはこのことによる過労のためとも言われるTBS・JNN報道特集「ナニワ金融道青木雄二の素顔」より。 |
| 緻密な描き込みについては「スクリーントーンを全く使わない」と形容されることがあるが、実際には多少は使用している。 |
| 背景をスクリーントーンだけで済ましているコマが連載中盤にいくつかあったはず。 |
| 日焼けの表現などよりよほど省力化の度合いが大きく、あえてスクリーントーンの使用例を挙げるならばこれを真っ先に挙げるべきだが、全体としてスクリーントーンの使用頻度が低いことが重要なのであって、どこの回で使われているかなどは瑣末事→ 実際作中での使用部分は、海外視察から帰国した枷木(かせぎ)とその秘書が日焼けしていたというのを表現する回と、栗尾の実家付近の農民の日焼けを表現する回だけである。 |
| スクリーントーンを使わないのをポリシーとしていた青木だが、この部分だけはトーンを使わずに表現することができず、渋々使用したらしい。 |
| 漫画家引退後は朝日新聞夕刊にコラム「ナニワ資本論」を連載していた。 |
| イラストも自らが描いていた。 |
| 原稿料は3Pで10万円青木雄二のナニワ資本論(1999年5月、ISBN9784022573964)。 |
| 著作の『ナニワ金融道』は金融ネタの漫画がブレイクするきっかけとなった。 |
| 後発の高利貸しを主人公にした作品『ミナミの帝王』に対しては、同作品の映画で著作権を侵害されたせいか、作中で"パクリの帝王"なる作品を描写するなど敵視していたらしい。 |
| また、『ミナミの帝王』主人公の「萬田銀次郎」をパロディにしたトイチの闇金「銭田掏二朗」を敵役として登場させ、灰原たちにへこまされるというエピソードも描いた。 |
| なお、この著作権問題は訴訟となり、『ミナミの帝王』側が『モーニング』に謝罪広告を出している。 |
| 現在、青木雄二監修・原案とクレジットの入った作品がいくつか存在する。 |
| 岡山県で少年期を過ごした経験から「岡山の人間は薄情だ」と非難していたとされるも、実際には岡山を何度か訪れ、講演や選挙での応援演説などを行なっていた。 |