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韓当
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227年
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プロフィール
韓当とは
正史における韓当
物語中の韓当
参考文献
韓当(かんとう、?-226年)は、後漢末期から三国時代の武将。呉に仕えた。幽州遼西郡令支県の人。字は義公。子に
韓綜
。『三国志』呉志に伝がある。
正史における韓当
→領楽安長〔
孫策
〕→中郎将〔
孫権
〕。
→偏将軍兼領永昌太守〔
孫権
〕。
→威烈将軍〔孫呉〕。
→昭武将軍兼領冠軍太守(後に兼都督)〔孫呉〕。
弓術・馬術に優れ体力もあったため、
孫堅
に見い出され部下に採り立てられた。
『呉書』によると、当時は下働きの身分に過ぎなかったという。
その後、危険を冒しつつ敵を破ったり、賊を捕虜にするなど活躍したため、別部司馬となった。
また
孫策
にも仕え、江東に出陣し三郡(会稽、丹陽、呉)の討伐に参加して先登校尉となった。
兵士2千、騎馬50頭を与えられた。
さらに
孫策
の
劉勲
討伐にも参加し、援軍の黄祖軍を破って、鄱陽の制圧にも同行、楽安県の長となった。
山越は韓当の武勇に恐れをなし従順な態度を取るようになったといわれる。
『呉録』には、
孫策
が黄祖を討伐した時の上奏文が収録されており、行先登校尉であった韓当の名もその中に記されている『三国志』孫破虜討逆伝。
孫権
の代には
陳蘭
の援軍に赴いたが、曹操の武将である
臧覇
に敗れた『三国志』
臧覇
伝。
赤壁の戦いでは中郎将となり、
周瑜
や
程普
達と共に曹操軍を迎撃した。
この戦いで、
黄蓋
が流れ矢にあたり水中に転落し、兵卒と間違えられ便所の側に放置されていたが、
黄蓋
が声を振り絞って韓当を呼んだため、韓当は
黄蓋
を保護し、涙を流して衣服を取りかえてやったという『三国志』
黄蓋
伝引『呉書』。
その後、
呂蒙
達と共に南郡攻略に参加し、これを奪取した。
その功績で偏将軍まで上り、永昌太守にも任命された。
夷陵の戦いでは、
陸遜
や
朱然
と共に劉備率いる蜀(蜀漢)の軍を迎え撃ち、涿郷で撃ち破った。
劉備を永安(白帝城)に追いやった後、魏の曹真が南郡(江陵)に攻め寄せて来た時は(三方面での戦い)、城の東南部を守備した。
223年、石城侯に封じられ、昭武将軍に昇進。
冠軍太守に任命され、都督の称号も与えられた。
地方で軍の指揮を執る時は、将兵を励まし
一致団結
して守りを固め、また中央からの目付の意見にはよく従い、法令を遵守したので、
孫権
に信頼された。
後に敢死・解煩兵(呉軍の特殊部隊)一万人を率いて、丹陽郡の賊を討伐し破った。
それから間もなくして病気のため死去した。
子の
韓綜
が
爵位
を継承したが、石陽の戦いに従軍した時、法に触れる振る舞いをしたため、
孫権
との関係が悪化、韓当の棺と母と部曲数千人を引き連れて、魏に亡命した。
物語中の韓当
『三国志演義』では、反
董卓
連合に参加した
孫堅
配下の4将軍の一人として、
程普
、
黄蓋
、
祖茂
と共に登場し、大刀を武器としてふるう武人として紹介される。
孫堅
が
袁紹
と仲違いした時は、
程普
・
黄蓋
と共に
袁紹
配下の猛将である
顔良
・
文醜
と睨み合いをしている。
孫堅
が
劉表
を攻撃し戦死する直前の場面では、凶兆が出ていることを
孫堅
に伝えている。
その後も
孫策
・
孫権
の配下として活躍、赤壁の戦いの緒戦では、旧
袁紹
軍の降将で構成された曹操軍の先鋒隊を、
周泰
と共に迎撃し
焦触
を討ち取っている。
また苦肉の策を成功させた
黄蓋
が、敵の矢を受け河に落ちていたところを助けている。
夷陵の戦いにおいては、孫氏三代に仕えた将軍として、
周泰
達と共に
陸遜
の指揮に不満を漏らすが、
陸遜
に戒められている(「
陸遜
伝」では、不満を漏らした人物の名は明らかにされていない)。
参考文献
(西晋)
陳寿
著『三国志』。
卷18魏書18
臧覇
伝、卷46呉書1孫破虜討逆伝、卷55呉書10
黄蓋
伝、韓当伝。
(明)
羅貫中
著『三国演義』。
zh-classical:韓當。
韓当 - Wikipedia
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