| 『献帝春秋』によると、反乱を起こした宋建と王国は、韓約ら数十人を人質に取り、金城太守の陳懿を殺害した。 |
| 韓約は、金城郡の有力者によって身代金を払われ買い戻されたが、この時名を韓遂と改めたという。 |
| 辺章・北宮玉が死去すると、王国を馬騰と共に擁立し、陳倉で皇甫嵩に王国が敗れるとこれを廃立して馬騰を立てた。 |
| 董卓らの追討軍に敗れたこともあるが(魏志「董卓伝」)、韓遂はその後も羌族の支持を受け涼州に割拠した。 |
| 192年に降伏し、長安に赴いた(魏志「董卓伝」)。 |
| 鎮西将軍に任命され、涼州に帰還した(魏志「董卓伝」)。 |
| この年の夏4月に董卓が呂布と王允らに殺され、さらに李がその王允を殺し、呂布を追い出して自分の政権を成立させていた。 |
| 征西将軍に任命され郿に駐屯していた馬騰は、朝廷の反李勢力や益州の劉焉と共同で長安を攻めたが、樊稠・郭汜に大敗した。 |
| このとき、韓遂も馬騰と同調していたという記録もあり、陳倉まで逃走したことを樊稠に追いつかれたが、旧知であったため見逃してもらったという(魏志「董卓伝」が引く『九州春秋』)。 |
| 当初は馬騰と義兄弟の契りを結ぶなど、極めて親しくしていたという(蜀志「馬超伝」が引く『典略』)。 |
| その後、涼州を巡って馬騰とも対立し、一転して互いに一族を殺し合う有様となった(魏志「鍾繇伝」、蜀志「馬超伝」が引く『典略』)。 |
| 袁紹との官渡の戦いを控えた曹操は関中の混乱を収めるため、司隷校尉の鍾繇を派遣し関中の総指揮を委ねた(魏志「鍾繇伝」)。 |
| 鍾繇は長安に拠って張既を使者として派遣、張既や涼州の牧の韋端の仲介により韓遂は馬騰らと講和、その後は子を人質に送り、曹操の傘下となった(魏志「鍾繇伝」、魏志「張既伝」、蜀志「馬超伝」が引く典略)。 |
| 袁尚の派遣した河東太守の郭援が関中方面に侵攻すると、鍾繇から関中の将軍らに援軍要請が来たため、韓遂らは馬騰の子の馬超に精鋭を与えて曹操への援軍を率いさせた。 |
| 馬騰が曹操の強い要請で朝廷に出仕し衛尉となり、一族を引き連れて鄴に移住すると、その子で馬騰の軍勢を引きついだ馬超を表に立てた(魏志「張既伝」、蜀志「馬超伝」)。 |
| 209年、武威太守張猛が雍州刺史の邯鄲商を殺害して反乱を起こした。 |
| 210年、韓遂は上書して張猛を討伐し自害に追い込んだ(「龐淯伝」が引く『典略』)。 |
| その翌年の211年3月(「武帝紀」)、曹操が鍾繇の計画で漢中の張魯征討に出兵する動きを見せ、夏侯淵らの軍を動かすと、韓遂らは張魯攻撃に託け、通り道に当たる自分たちを攻撃するのではないかと危惧し、馬超・楊秋・成宜・李堪ら関中の有力者らとこれに呼応して曹操に対して反逆した(「武帝紀」)。 |
| 弘農・馮翊の者達はこれに呼応する者が多く、杜畿が太守を務める河東郡だけが動揺しなかったという(魏志「杜畿伝」、魏志「裴潜伝」が引く『魏略』(厳幹の伝)。 |
| 曹操は河東に同郡出身の徐晃を派遣した(「徐晃伝」)。 |
| 秋7月には韓遂らは潼関に拠り曹操軍の曹仁らと対峙し、渭水の畔で9月まで曹操軍と死闘を演じたが、決着はつかなかった(「武帝紀」)。 |
| しかし曹操が配下の賈詡による離間策を採用し、韓遂・馬超と会談を持ちかけてくると、韓遂と曹操は、韓遂の父と曹操が同年の孝廉であったり、同時期に挙兵した間柄であったことから、昔話に興じるなど親しく談笑したため、馬超らに疑われた。 |
| 曹操は韓遂にわざと疑惑を招くような手紙を送ったため、ますます韓遂は疑われた。 |
| 曹操はこの足並みの乱れに乗じて馬超らを攻撃し、韓遂・馬超は涼州に逃亡した(「武帝紀」)。 |
| 人質に送られていた、韓遂の息子と孫は曹操に皆殺しにされた。 |
| 馬超が氐族と手を組み反乱を起こし、涼州の動静が乱れたため、214年に曹操が長安に置いていた将軍の夏侯淵は涼州平定のために攻めて来た(「武帝紀」、「夏侯淵」)。 |
| 夏侯淵は馬超を討つついでに、涼州の抵抗勢力を一掃することを企図し、韓遂にも攻撃を加えてきた。 |
| 韓遂は異民族と手を組みこれと懸命に戦ったが、夏侯淵の軍略の前に敗れ、金城(あるいは西平)に逃走した(「夏侯淵伝」)。 |
| 韓遂は、閻行に叛かれるなどその勢力を弱め、益州の蜀(当時、劉備が支配)に逃げようかと配下の成公英に漏らしたが、成公英は抗戦を主張し、韓遂もこれに従った(魏志「張既伝」が引く『典略』、及び『魏略』)。 |
| 215年、曹操は漢中の張魯を討つために親征してきた。 |
| 西平・金城に割拠する麹演・蒋石は協力して韓遂を殺害し、首を曹操に送ったという。 |
| 70余歳だった(「武帝紀」が引く『典略』)。 |
| 晩年の韓遂については異説があり、夏侯淵に敗れた後に西平の郭憲に庇護されていたが、病死した後にその首を斬り落として曹操への手土産にした者達がいたという(魏志「王修伝」が引く『魏略』「純固伝」)。 |