| 秦末期、陳勝・呉広の乱が起きると、項羽は項梁に従って会稽郡役所に乗り込み、郡守である殷通をだまし討ちした後に襲いかかってきた殷通の部下数十名を一人で皆殺しにし、会稽の役人たちは項羽の強さに平伏、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。 |
| 陳勝が敗死すると項梁は范増から教えを請い旧王家の末裔を探し出してこれを「楚王」に祭り上げて大いに威勢を奮ったが、秦の章邯の奇襲によって戦死する。 |
| このとき、項梁の戦死を恨んだ項羽は、章邯が居城としていたが既に去っていた定陶城の住民を皆殺しにしている。 |
| 項梁死後の楚軍の指揮について会議が行われたが、結局斉の使者に項梁の戦死を予言した宋義が楚軍を指揮することになった。 |
| 宋義は趙の張耳、陳余の救援要請を受けて趙へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまい、兵が飢えてしまった。 |
| 項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言う宋義に納得できなかった項羽は彼を殺害し、実質的な楚軍の総大将となった。 |
| また、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていった宋義の息子の宋襄も追いかけて殺害した。 |
| そして、項羽は咸陽へ向けて北進を開始した。 |
| 途中、鉅鹿を包囲していた秦の名将・章邯が率いる20万を超える大軍と決戦した。 |
| 鉅鹿の落城は時間の問題と見られており、趙救援に駆けつけていた各国の軍は全く手を出せず、傍観していた。 |
| しかし項羽は、まず秦軍の食料運搬部隊を襲い、糧道を絶って秦の大軍を飢餓に追い込み、士気を低下させた。 |
| 次いで項羽は、川を渡った後に兵士に三日分の兵糧のみを与え、残りの物資と共に船を沈めた。 |
| 三日で決着が着かねば全滅あるのみ、と決死の覚悟をさせたのである。 |
| そして項羽は王離の軍を包囲し、甬道を絶って章邯との戦いに大勝し、王離を捕え、蘇角を討ち取った。 |
| 秦の将の渉間は自殺した。 |
| この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と戦ったという。 |
| この功績により各国の軍の指導者達は項羽に服属し、項羽は上将軍となった。 |
| 項羽はその後も秦軍を攻め、連戦連勝し、総大将の章邯は降伏を申し出、戦いは終わった。 |
| この時、項羽は20万以上の秦兵を捕虜として得たが、暴動の気配が見えたので新安という所でこれを全て坑(穴に埋めて殺す事)した。 |
| 項羽は関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が関中に入っていた。 |
| 功績を横取りされたと感じた項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとした。 |
| 劉邦は慌てて項羽の伯父項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。 |
| これが有名な鴻門の会である。 |