17760
17942
201030
%E9%A1%94%E7%9C%9F%E5%8D%BF
%E9%A1%94%E7%9C%9F%E5%8D%BF
%E9%A1%94%E7%9C%9F%E5%8D%BF
%E9%A1%94%E7%9C%9F%E5%8D%BF
%E9%A1%94%E7%9C%9F%E5%8D%BF
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 顔真卿の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 顔真卿とは
- 出自
- 経歴
- 書
- 楷書
- 多宝塔碑
- 顔勤礼碑
- 顔氏家廟碑
- 行書
- 争座位帖
- 後世への影響
- 伝記
- 参考文献
- 関連項目
顔真卿(がんしんけい、709年(景龍3年)-785年(貞元元年))は、字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもある。
出自
| 琅邪臨沂(山東省)の顔氏の出身であり、先祖は孔子の弟子顔回。 |
| 同族に後漢の武将顔良がいる。 |
| 生まれは長安であり、『顔氏家訓』で知られる顔之推の五世の孫にも当たる。 |
| 顔氏は、代々学問で知られ、また能書家が多く、世に学家と称された。 |
経歴
| 737年(開元25年)に進士及第し、742年(天宝元年)に文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。 |
| ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ、753年(天宝12載)に平原郡(山東省徳県)の太守に降格された。 |
| 時まさに安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、顔真卿は、従兄で常山郡(河北省正定県)の太守であった顔杲卿とあい呼応して、唐朝に対する義兵を挙げた。 |
| その後、756年(至徳元載)に平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた。 |
| しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相の元載のような実権者より妬まれ、反臣の淮西節度使李希烈に対する慰諭の特使に任じられ、そこで捕えられた。 |
| 李希烈は真卿を惜しみ、自らの部下となるよう何度となく説得したが真卿は断固拒否し続け、唐への不変の忠誠心を表す「天中山」を記すに至り李希列は説得を断念、殺された。 |
| この最期は非常に劇的であったため、後世忠臣の典型例として、靖献遺言に取り上げられている。 |
書
| 顔氏は顔真卿以前より能書家の家系として知られており、真卿も壮年期に張旭に筆法を学び、書論『張長史十二意筆法記』を残している。 |
楷書
| 真卿は初唐以来の流行である王羲之流(院体)の流麗で清爽な書法に反発し、「蔵鋒」の技法を確立した。 |
| 力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の楷書がその特徴である。 |
| 伝説では、顔真卿が貧しかった頃、屋根裏に染みた雨漏りの痕を見てこの書法を編み出したといわれている。 |
| 叔父・顔元孫が編纂した「干禄字書」の規範意識に基づく独自の字形を持つものも多いが、その字形は当時標準とされた楷書とは異なり、正統的な王羲之以来の楷書の伝統を破壊するものであったため、賞賛と批判が評価として入り混じっている。 |
| これらの楷書は「顔体」(顔法、北魏流)とも呼ばれ、楷書の四大家の一人として後世に大きな影響を与えた。 |
| 楷書作品には『顔氏家廟碑』、『麻姑仙壇記』、『多宝塔碑』、『顔勤礼碑』などがある。 |
多宝塔碑
| 『多宝塔碑』(たほうとうひ)の建碑は天宝11年(752年)。 |
| 題額は徐浩の隷書、碑文は真卿44歳のときの楷書、撰文は岑勛による。 |
| 題額の隷書は「大唐多宝塔感応碑」の8文字、碑文の初行には「大唐西京千福寺多宝仏塔感応碑文」とある。 |
| この碑は長安の千福寺に勅命により建立したもので、僧・楚金(698年-759年)が千福寺に多宝塔を建立した由来を記した碑である。 |
| 現在は西安碑林に移されている。 |
| 現存する真卿の作品の中では最も若いときのもので、後年のいわゆる「顔法」と称される風骨は未だ十分に発揮されていないが、碑字にあまり損傷がなく、旧拓もあるため楷書の手本として広く用いられている。 |
顔勤礼碑
| 『顔勤礼碑』(がんきんれいひ)の建碑は乾元2年(759年)と大暦14年(779年)の両説ある。 |
| 真卿の曽祖父・勤礼の墓碑で、真卿の撰ならびに書の楷書碑である。 |
| 碑高は268cm、幅は92cmの四面刻であったが、最後の銘文のあった一側面が宋代に石材として利用され削られたことが『金石録』に記録されている。 |
| 碑は永く土中にあったため文字が鮮明で、技巧的に洗練されて筆がよく冴えており、「顔法」を学ぶ上に最も重要な資料である。 |
顔氏家廟碑
| 『顔氏家廟碑』(がんしかびょうひ、『顔惟貞廟碑』とも)の建碑は建中元年(780年)、真卿72歳の時の楷書碑である。 |
| 篆額は李陽冰の書で「顔氏家廟之碑」と3行に入れてある。 |
| 真卿が父の惟貞のために廟を造り、碑を建てて顔家の履歴を自ら述べたもので、西安碑林に現存する。 |
| 碑高は345cm、幅は160cmの四面刻で、両面は各24行・各行47字、両側は各6行・各行52字あり、全部で2000字をこえる力作である。 |
| 碑の保存もよく、拓本も多く伝わっており、真卿の楷書の代表作である。 |
行書
| 行書に関しては楷書と異なり、書の達人として王羲之に匹敵するとされており、文句なしの賞賛を受けている。 |
| 遺墨が多く残り、『劉中使帖』、『争座位帖』、『祭姪文稿』が特に有名である。 |
争座位帖
| 『争座位帖』(そうざいじょう、『争座位文稿』とも)は広徳2年(764年)、真卿55歳の時の書。 |
| 真卿が右僕射の任にあった郭英乂に送ったとみられる手紙の草稿(下書き)。 |
| 内容は英乂が百官集会(諸官の集会)の折、座位を乱したことに対して、朝廷の権威をそこなったとして抗議したもの。 |
| 『祭姪文稿』、『祭伯文稿』とともに「顔真卿の三稿」といわれた1つ。 |
| 真跡は伝わらないが、西安碑林にある関中本が最も信頼できる刻本とされる。 |
後世への影響
| 顔真卿の影響を受けた書家には、弘法大師(空海)・井上有一・榊莫山らがいる(書に造詣の深い映画監督の実相寺昭雄も、顔真卿の影響を受けていると語ったことがある)。 |
| 空海が唐に入った頃、韓愈が王羲之を否定して顔真卿を称揚する主張を行っていたため、空海が顔真卿の書風を好んだのではないかと榊莫山は推測している。 |
| 日本でも中国でも、過去の歴史に於いては書道に於いては王羲之流が主流派であったため、顔真卿が評価されるようになったのは、書道界でも実は最近のことである。 |
| 日本では長三洲が顔法の開拓者として名高い。 |
伝記
| 『旧唐書』巻128。 |
| 『新唐書』巻153。 |
| 「顔魯公行状」(『顔魯公文集』所収)。 |
参考文献
| 外山軍治『顔真卿』(1964年)。 |
| 木村卜堂『日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)。 |
| 飯島春敬ほか『書道辞典』(東京堂出版、1975年4月)。 |
| 西林昭一・鶴田一雄「隋・唐」(『ヴィジュアル書芸術全集』第6巻雄山閣、1993年8月)ISBN4-639-01036-2。 |
| 比田井南谷『中国書道史事典』普及版(天来書院、2008年8月)ISBN978-4-88715-207-6。 |
| 星弘道『顔真卿の書』(二玄社、2010年2月)ISBN978-4-544-01396-2。 |
関連項目
| 日本の書道史-中国の書道史。 |
| 顔真卿自書建中告身帖事件。 |
|
1975年
|
飯島春敬ほか 『書道辞典』(東京堂出版) |
|
1993年
|
西林昭一・鶴田一雄 「隋・唐」(『ヴィジュ... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
王羲之
王羲之(おうぎし、WángXīzhī、303年-361年)は中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現... |
|
|
欧陽詢
唐代の儒家、書家。字は信本。潭州臨湘(現在の湖南省長沙市)に生まれ、安徽で死去した。 |
|
|
法帖
書道において紙に筆と墨で書かれた書蹟のうち、保存・鑑賞・学書用に供するために仕立てられたもののこと。ほとんどの場合中国の書蹟に用いられる語である。... |
|
|
王義之
学区紹介 王義之車
河水車
鹿子神車
明倫学区には、新出来町の鹿子神車(かしかじんしゃ)・中之切の河水車(かすいしゃ)・古出来町... |
|
|
董其昌
中国明代末期に活躍した文人であり、特に書画に優れた業績を残した。清朝の康煕帝が董の書を敬慕したことは有名である。その影響で清朝において正統の書とさ... |
|
|
虞世南
唐代の書家、政治家。字は伯施。越州余姚(浙江省)の人。初唐の三大家の一人。 |
|
|
中村不折
中村不折(なかむらふせつ、慶応2年7月10日(1866年8月19日)-昭和18年(1943年)6月6日)は明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家、書家である。正五位... |
|
|
安禄山
唐代の中国の軍人、大燕国皇帝。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(rwxšn/roxš(a)n明るい... |
|
|
玄宗
唐の第6代皇帝(在位:712年-756年)。諱は隆基。治世の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因... |
|
|
柳公権
中国唐代の政治家、書家である。京兆華原の人で、字を誠懸(せいけん)という。家系は河東の名族・柳氏の一派に属し、父の子温は丹州刺史、兄の公綽は河東節... |
|
|
李希烈
李希烈 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 , 検索 李希烈 楚 初代皇帝 王朝 楚 在位期間 782年 - 786年 姓・諱 ... |
|
|
趙之謙
趙之謙(ちょうしけん、ZhaoZhiqian、1829年7月9日-1884年10月1日)。字は益甫または撝叔、号は冷君、悲盦、梅庵、无悶、憨寮など。清末の書家、画家、篆刻家... |
|
|
楼蘭
楼蘭(ろうらんLoulan推定されている現地名はクロライナKroraina)は現在の中国領新疆ウイグル自治区に存在した都市、及びその都市を中心とした国家。西域南... |
|
|
良寛
良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕-天保2年1月6日〔1831年2月18日〕)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。俗名、山本栄蔵... |
|
|
東方朔
前漢・武帝時代の政治家。字は曼倩。平原郡厭次県(現在の山東省陵県神頭鎮、もしくは山東省恵民県)の人。 |
|
|
佐野光
佐野光宜 更新日: 11/06/16 10:25 研究者氏名 佐野光宜 サノ ミツヨシ eメール acca_h livedoor.com 所属 京都大学 部署 文学部 職名 ... |
|
|
蘇軾
蘇軾(そしょく、景祐3年12月19日(1036年1月8日)-建中靖国元年7月28日(1101年8月24日))は中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東... |
|
|
顔杲卿
顔杲卿(がん・こうけい、天授3年692年-至徳元載756年)中国・唐代の官吏・忠臣。字は昕。顔真卿とは5代前の祖先を同じくする。北斉の学者・顔之推、唐代初期... |
|
|
関中
中華人民共和国の地域である。函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地(同・渭河平原)の西安を中心とした一帯である。春秋戦国時代の秦の領地... |
|
|
徽宗
徽宗(きそう、1082年11月2日(元豊5年10月10日)-1135年6月4日(紹興5年4月21日)、在位:1100年-1125年)は北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁... |
|
|
顔真卿さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|