| 同年に太常に改任され、醴陵侯に改封される。 |
| 初代丞相の孫邵が亡くなると、重臣の大半は最長老の張昭を丞相に推薦したが、孫権は顧雍を二代目の丞相に任命した(『三国志』呉志「張昭伝」)。 |
| 顧雍は孫邵のあとを受けて丞相・平尚書事にも任命された。 |
| 顧雍は丞相になると、公平さを旨とした人事を行い、自らの感情に左右されることはなかったという。 |
| 顧雍は時には民衆の間に入って意見を求めることもあり、時宜に適した方策があると、すべて孫権に上聞した。 |
| 建策が用いられたときはすべて孫権の手柄とし、用いられなかったときはそのことを決して他言しなかった。 |
| このことから孫権には重んじられたという。 |
| 公の場で発言するときには言葉や顔つきはおだやかであるが、正しいと思うところを遠慮せず意見をした『江表伝』によると、孫権は中書郎の役の者を顧雍の元へ派遣し、いろいろな事柄について意見を求めた。 |
| 孫権の意向が顧雍の意見と合致し、すぐ実施してもよい場合は、顧雍は中書郎の者とその場で討議した上で、深く検討を加え、中書郎の者を酒食を用意してもてなした。 |
| 孫権の意向が顧雍の意見と合致しない場合は、顧雍は顔つきを改めてきびしい顔をし、黙して何も語らず、何のふるまいも用意せず、中書郎の者はすぐに引き上げた。 |
| 孫権は顧雍の意向を重んじ、何も語らなかったときは改めて考え直すことにしていたという。 |
| また、長江の諸将がしばしば巧名目的で軍事作戦を提案してくることがあり、孫権が顧雍に意見を求めると、顧雍は諸将が自身の手柄目的で提案してくるようなことには耳を貸さずに、真に効果的と思える策のみ取り上げるようにと忠告した。 |
| 孫権はこれに従ったという。 |
| あるとき、孫権が政策全般について不都合な点がないかどうかを尋ねたことがあった。 |
| 張昭は、法令が煩雑で刑罰が重くなっているとの評判があり、緩和すべきではないかと提言した。 |
| 孫権はしばらく黙った後に顧雍の意見を求めたところ、顧雍は、自分も張昭が聞いたという評判と同じことを聞いたことがある、と回答した。 |
| 孫権はしぶしぶ裁判の量刑を緩和したという。 |
| 黄龍2年(230年)、顧雍らは上奏し、孫権の次男で建昌侯の孫慮に王号を与えることを提案した。 |
| 孫権には許諾されなかったが、その後、尚書僕射の存某という人物が顧雍と意見を通じて上疏し、孫慮を鎮軍大将軍に任命して出鎮させることを提案した。 |
| 孫権はこれを受けて孫慮に仮節を与えて幕府を開かせ、半州に役所をおかせた。 |
| 孫慮は嘉禾元年(232年)に若くして死去した(『三国志』呉志「呉主五子伝」)。 |
| 嘉禾2年(233年)3月、孫権は先に服属し燕王に封じた遼東の公孫淵に九錫と財宝を与えるため、太常の張弥・執金吾の許晏・将軍の賀達らを使者に送り1万の兵を率いさせ海路で遼東に向かわせようとした。 |
| 呉の朝臣らは丞相の顧雍を中心としてこぞって反対したが、孫権は聞き入れなかった(『三国志』呉志「呉主伝」)。 |
| 嘉禾年間、顧雍の孫である顧承が初めて孫権に召しだされた。 |
| 孫権は顧承が評判以上の人物であったことを喜び、顧雍に手紙を送って慶びを述べた上で、騎都尉に任命し、羽林兵を指揮させた。 |
| 孫権は従女が顧氏の甥に嫁いでいたことから、宴席に顧雍の一族を招いたことがあった。 |
| 当時、顧雍の孫の顧譚が選曹尚書に任命され、孫権に重用されていた。 |
| 孫権の機嫌が非常によく、顧譚は酒に酔って三度立ち上がって舞いを踊り、いつまでも舞を止めようとはしなかった。 |
| 顧雍は腹を立て、翌日に顧譚を呼びつけてその慢心ぶりを叱りつけた。 |
| 顧雍は壁のほうを向いて横になり、顧譚は立ち尽くしたまま2時間経ってからようやく引き下がることを許されたという(『江表伝』)。 |