| 1980年、ドラフト2位で巨人に指名され入団。 |
| 入団後一週間で投手から打者へ転向し、強打好守の外野手として期待された。 |
| 1983年4月10日の対大洋戦後楽園球場において、試合前の練習で怪我をしたレギュラーの中畑清に変わり7番一塁手で先発出場。 |
| 日本プロ野球史上初の初打席満塁本塁打MLBでは2010年6月13日現在5人達成しているが、日本プロ野球では1995年のダイエーのケビン・ミッチェルと駒田の二人だけであり、日本人選手としては2011年現在駒田1人である。 |
| を放ち一軍デビューを果たす。 |
| 藤田元司監督は当初ベテランの山本功児の起用も考えていたが、当時助監督だった王貞治の進言で先発が決まったと言われる。 |
| 対戦投手は二軍時代得意としていた右田一彦。 |
| 背番号50の駒田、背番号55の吉村禎章、背番号54の槙原寛己の3人は「50番トリオ」として巨人の期待の若手として注目された。 |
| この年槙原は12勝をあげる活躍で新人王、吉村は規定打席不足ながら打率.326、駒田も規定打席不足ながら12本塁打を放ちセ・リーグ優勝の原動力となった。 |
| この時期、かつて巨人に在籍したゲーリー・トマソンをもじって「コマソン」とも呼ばれていた。 |
| 1984年、巨人監督に就任した王貞治からホームラン打者として期待され、一本足打法の習得を薦められる。 |
| 首都圏で試合のある日は毎日のように王の師匠である荒川博の自宅へ通い、夜中まで練習をして一本足打法の習得を試みたが結果を残せなかった。 |
| その後、1985年から巨人の打撃コーチに就任した松原誠の指導などにより、自身にあった打撃スタイルを確立していった。 |
| 外野と一塁を兼任しながらレギュラーメンバーの故障離脱の合間をぬうように出番を増やす。 |
| 1987年、シーズン後半に松本匡史から外野のポジションを奪取。 |
| 1988年、背番号を10に変更。 |
| 決して足は速くなかったが、チーム事情から1987年後半から1988年前半にかけては日本シリーズも含み、1番打者として起用されることが多かった。 |
| 1989年、シーズン途中で中畑清の故障と、それに伴う岡崎郁の三塁コンバートにより一塁が空き、一塁手のレギュラーに定着。 |
| 初めてゴールデングラブ賞を受賞。 |
| またこの年、10盗塁を記録している。 |
| この頃より「恐怖の7番バッター」と呼ばれるようになる。 |
| 1989年の日本シリーズ第7戦で、近鉄バファローズ先発の加藤哲郎から先制ホームランを放ち、ダイヤモンドを一周中に「バ〜カ!!!」と叫んだ。 |
| 巨人は第3戦で加藤-村田辰美-吉井理人の継投に完封され、勝利投手となった加藤が試合後「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」と発言したと報じられた経緯もあり、この発言は一般に「加藤の暴言に対する罵倒」と認識されている。 |
| 実際には加藤の発言そのものに怒っていたわけではなく、場外ホームランだと思っていたことと、この一打で勝利を確信したことなどから興奮の余り「こぉんの!!バ〜カヤロ〜!!!」と叫んだが、「『バ〜カ』ってところだけ強烈に口を大きく開けて言ったもんだから。 |
| それがテレビで写っちゃってね」「加藤本人も多分聞こえてなかったと思います。 |
| 聞こえてたのは金村義明くらいでしょう」と後年回想している。 |
| 『プロ野球乱闘読本』(オークラ出版2008年4月)より要約。 |
| 駒田はこの「バ〜カ!!!」発言以降、人格が変わると風評が立ち、相手チームからの内角の厳しいボールがめっきり減った気がするとも述べている2006年12月20日付東京スポーツ、駒田が連載していたコラム『俺の話を聞け!』より。 |
| 1990年、22本塁打83打点と、チーム最多の本塁打と打点を記録する。 |
| 翌1991年は打率.314とキャリアハイとなる成績を残すなど、主軸としての地位を不動のものとする。 |
| 1992年、アキレス腱痛の原辰徳が一塁にコンバートされたことに伴い、右翼手に転向。 |
| この年は27本塁打を放ちキャリアハイを記録。 |
| 守備範囲は狭かったものの強肩で貢献。 |
| シーズンオフには原と共に日本人としては球団初の年俸1億円プレイヤーになる。 |
| 1993年、原の三塁への再コンバートにより再び一塁手に戻るも、打撃不振のために1990年から続けてきた全試合出場記録が途切れる。 |
| この年、コーチの中畑清との確執がスポーツ紙でたびたび取り上げられる。 |
| 駒田が「さんまのまんま」に出演した時(1997年1月14日)に司会の明石家さんまに「なんでFAして巨人を出たの?」と聞かれた際に駒田は「その時のコーチと合わなかった。 |
| 監督の長嶋茂雄とも、駒田自身がコンタクトを取ろうと試みても長嶋監督は無視をするなど秋風が吹いた。 |
| 同年シーズンオフ、中日ドラゴンズの落合博満がFA宣言して巨人へ入団することが濃厚となり、出場機会を奪われることに危機感を持った駒田は同様にFA宣言する。 |
| 関東の球団を希望する駒田と、かつて巨人のヘッドコーチであった横浜監督の近藤昭仁による、駒田獲得の希望がマッチする形で横浜へ移籍。 |
| 横浜球団は駒田獲得の際、1980年代の看板選手であった6選手(高木豊、屋鋪要、大門和彦、山崎賢一、市川和正、松本豊)を突如として解雇したが、解雇した選手の総年俸と駒田の獲得必要資金がほぼ一致したことから、一部マスコミから「駒田の獲得資金稼ぎ」と揶揄・批判されたこともある。 |
| なお、巨人からFA宣言して国内球団に移籍したのは小久保裕紀と駒田の二人だけであるが、生え抜きの選手で国内球団に移籍したのは駒田ただ一人である{{G5000|1989年の日本シリーズMVP受賞が掲載され、簡単な経歴も添えられている(p.68〜)。 |
| なお、同書では、槙原、吉村はいずれも単独でのエピソードが紹介されている。 |