| 嘉永7年閏7月27日(1854年9月19日)幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町に生まれた。 |
| きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、きんは中門前町のおばのところへ預けられたこともあり、行儀見習いのために川村家へ奉公していた。 |
| 庄右衛門の妻は身重になったきんに同情し、こっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させ、ときどき見舞って世話をしたという『高橋是清―財政家の数奇な生涯』 7頁。 |
| 生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。 |
| その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院)にて学び、慶応3年(1867年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿(ころく)と海外へ留学した。 |
| 然し、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リード(EugeneM.VanReed)によって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先である彼の両親に騙され年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。 |
| 牧童や葡萄園で奴隷同然の生活を強いられ、幾つかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。 |
| 明治元年(1868年)、帰国する。 |
| 帰国後の1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。 |
| 英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・開成高校)の初代校長をも一時務めた。 |
| 教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。 |
| その間、文部省、農商務省(現・経済産業省及び農林水産省)の官僚としても活躍、1884年(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。 |
| 1889年(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑の為失敗。 |
| 1892年(明治25年)再び帰国した後に川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行。 |
| 日露戦争(1904~1905)が発生した際には日銀副総裁として戦費調達の為に戦時外債の公募で同盟国の英国に向かったが、投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、同盟国英国が建前として局外中立の立場で公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念があった。 |
| それに対し、高橋は、。 |
| この戦争は自衛の為やむを得ず始めたものであり日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。 |
| 支払い能力は関税収入である。 |
| 中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例がある。 |
| 関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と拒絶した。 |
| 交渉の結果、ジェイコブ・シフやロンドン留学時代の人脈が外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。 |
| 1905年(明治38年)、貴族院議員に勅選。 |
| 1911年(明治44年)に日銀総裁となる。 |
| 1913年(大正2年)、第1次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。 |
| 又、政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。 |
| 然し高橋自身思わぬ総裁就任だった為、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。 |
| 政友会はその後も迷走し、清浦奎吾の超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。 |
| これに対し高橋率いる政友会は、憲政会及び革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。 |
| これにより清浦内閣打倒に成功する。 |
| 新たに総理大臣となった憲政会総裁の加藤高明は、高橋を農商務相に任じた。 |
| ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。 |
| 画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。 |
| この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→詳細は「二・二六事件」を参照)。 |
| その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。 |
| 高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。 |
| 1931年(昭和6年)、政友会総裁犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた(リフレーション政策)。 |
| 又、五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。 |
| 続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。 |
| また1934年(昭和9年)に、共立学校での教え子にあたる岡田啓介首班の内閣にて6度目の大蔵大臣に就任。 |
| 当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく(出口戦略参照)軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で青年将校らに暗殺された。 |
| また、現在一般化している一般歳入の補填を目的とした国債発行を日本で始めて実行したことでも知られており、それを含め現在の日本の金融政策にも大きな影響を及ぼしている。 |