| 496年(太和20年)に懐朔鎮に属する高樹生と韓氏のあいだの子として生まれた。 |
| 母の韓氏が死去すると、姉婿の尉景の家で養われた。 |
| 若いころの高歓は貧しく、婁昭君を妻に迎えてはじめて馬を持ち、懐朔鎮の隊主の地位をえた。 |
| 洛陽にたびたび使いして帰ると、人士と交友して散財した。 |
| 司馬子如・劉貴・賈顕智・孫騰・侯景らと友情を結んだ。 |
| 525年(孝昌元年)、柔玄鎮の杜洛周が上谷で反乱を起こすと、高歓は同志とともに杜洛周に従った。 |
| 次いで葛栄に従い、さらに爾朱栄のもとに身を寄せた。 |
| 劉貴が高歓のことを爾朱栄に推薦し、爾朱栄も高歓と語り合って親密になった。 |
| 爾朱栄が并州に拠ると、高歓はその下で親信都督となった。 |
| 528年(武泰元年)、北魏の孝明帝が霊太后に殺害されると、爾朱栄は挙兵して入洛し、高歓は爾朱栄軍の先鋒をつとめた。 |
| 爾朱栄は霊太后や幼主元釗を河陰で殺害した(河陰の変)。 |
| 爾朱栄はさらに簒奪をも企図したため、高歓は鋳像の占いによって諫めて止めさせた。 |
| 孝荘帝が即位すると、高歓は銅鞮伯に封じられた。 |
| 爾朱栄の命を受けて葛栄を攻撃し、王を称する反乱者7人を下した。 |
| 後に行台の于暉とともに羊侃を泰山に撃ち、元天穆とともに邢杲を済南で破った。 |
| 第三鎮人酋長に進み、晋州刺史に任じられた。 |
| 530年(永安3年)、孝荘帝が爾朱栄を宮中に誘い出して殺害した。 |
| 爾朱兆は復仇のため晋陽で挙兵し、高歓を召し出した。 |
| 高歓は絳蜀・汾胡の乱を口実に爾朱兆の召集に応じなかった。 |
| 爾朱兆が孝荘帝を捕らえて晋陽に連行すると、高歓は孫騰を派遣して爾朱兆の功績を祝いつつ、孝荘帝の所在を探って身柄を奪おうと図ったが、失敗した。 |
| 孝荘帝は爾朱兆に殺害され、爾朱世隆らが長広王元曄を皇帝に擁立した。 |
| 高歓は平陽郡公に封じられた。 |
| 及費也頭の紇豆陵歩藩が晋陽に迫り、爾朱兆は敗走した。 |
| 爾朱兆は高歓に救援を要請し、高歓は爾朱兆と協力して歩藩を撃破した。 |
| 歩藩が敗死すると、爾朱兆は高歓と兄弟の契りを交わした。 |
| ときに爾朱世隆・爾朱度律・爾朱彦伯は洛陽で朝政を左右し、爾朱天光は関中で、爾朱兆は并州で、爾朱仲遠は東郡で、それぞれ軍権を握って割拠した。 |
| 531年(普泰元年)2月、高歓は信都に進軍し、冀州に拠った。 |
| 爾朱度律が元曄を廃位して節閔帝を立てた。 |
| 3月、節閔帝により高歓は渤海王に封じられ、入朝をうながされたが、高歓は断った。 |
| 4月、東道大行台・第一鎮人酋長の位を加えられた。 |
| 6月、信都で反爾朱氏の起兵をおこなった。 |
| 李元忠と高乾が殷州を平定し、爾朱羽生を斬った。 |
| 8月、爾朱兆が殷州を奪回した。 |
| 10月、高歓は渤海郡太守元朗(後廃帝)を皇帝に擁立した。 |
| 爾朱度律と爾朱仲遠が陽平に進軍し、爾朱兆が合流したため、高歓は竇泰の策を用いて、爾朱氏の仲を裂き、度律と仲遠は戦わずに帰還した。 |
| 高歓は爾朱兆を広阿で撃破した。 |
| 11月、鄴を攻撃した。 |
| 532年(中興2年)1月、鄴城を落とした。 |
| 高歓は後廃帝により大丞相・柱国大将軍・太師に任じられた。 |
| 閏3月、爾朱天光が長安から、爾朱兆が并州から、爾朱度律が洛陽から爾朱仲遠が東郡から、総勢20万を号する爾朱氏の軍が鄴をめざして進軍してきた。 |
| 高歓は封隆之に鄴を守らせ、自らは韓陵に出て、爾朱氏の軍と決戦した(韓陵の戦い)。 |
| 高歓は韓陵で勝利し、爾朱氏は敗走した。 |
| 4月、斛斯椿が爾朱天光と爾朱度律を捕らえ、長孫稚が賈顕智と張歓を派遣して、爾朱世隆・爾朱彦伯を斬った。 |
| 爾朱兆は并州に逃れ、爾朱仲遠は南朝梁に亡命した。 |
| 高歓は洛陽に入ると、節閔帝と後廃帝を廃位して孝武帝を擁立した。 |
| 大丞相・太師・世襲定州刺史の位を受け、鄴に帰還した。 |
| 7月、爾朱天光と爾朱度律を洛陽に送って斬り、爾朱兆に対する北伐をおこなった。 |
| 滏口から并州に入り、爾朱兆が秀容に逃亡すると、高歓は晋陽に大丞相府を置いて居を定めた。 |
| 533年(永熙2年)1月、竇泰が爾朱兆を攻撃し、爾朱兆は敗走して追撃を受け、赤洪嶺で自縊した。 |
| 慕容紹宗と爾朱栄の妻子が烏突城で降伏すると、高歓はかれらを厚遇した。 |
| 高歓が洛陽に入ると、斛斯椿は不安を抱き、南陽王元宝炬や元毗・魏光・王思政らと結んで、孝武帝をたきつけて高歓と対抗させようとした。 |
| 孝武帝は賀抜岳に心をよせるようになり、高乾が処刑されるにいたって孝武帝と高歓のあいだの溝は決定的になった。 |
| 534年(永熙3年)7月、斛斯椿らにより孝武帝は洛陽から連れ出され、長安に向かった。 |
| 8月、孝武帝が関中に入って宇文泰に保護された。 |
| 10月、高歓は元善見(東魏の孝静帝)を皇帝に立てた。 |
| 535年(天平2年)、稽胡の北部王劉螽升を攻撃して斬った。 |
| 536年(天平3年)1月、西魏の夏州を攻撃し、西魏の霊州刺史の曹泥と涼州刺史の劉豊を降した。 |
| 3路に分かれて西魏に侵攻する計画を立て、この年の12月に汝陽王元暹と司徒高昂を上洛に派遣し、大都督竇泰を潼関に入らせた。 |
| 537年(天平4年)1月、竇泰が宇文泰に敗れて自殺した。 |
| 10月、高歓は黄河を渡り、宇文泰と沙苑で決戦して大敗した(沙苑の戦い)。 |
| 洛陽が西魏軍に占領された。 |
| 538年(元象元年)3月、高歓は丞相の位を退いた。 |
| 7月、侯景と高昂が西魏の独孤信を洛陽の金墉城に包囲し、西魏の文帝と宇文泰が救援に現れた。 |
| 8月、高歓は西魏軍と決戦し、高昂・李猛・宋顕らが戦死した(河橋・邙山の戦い)。 |
| 東西両軍の消耗は大きく、宇文泰が撤退したため、東魏軍は洛陽を奪回することができた。 |
| 539年(興和元年)、鄴の新宮殿が完成すると、高歓は長年辞退してきた渤海王・都督中外諸軍事の位を受けた。 |
| 542年(興和4年)、西魏の王思政を玉壁城に包囲したが、大雪のために撤退した(玉壁の戦い(542年))。 |
| 543年(武定元年)、北豫州刺史高慎が虎牢でそむいて西魏につくと、宇文泰が高慎を救援するため出兵し、河橋南城を包囲した。 |
| 高歓は邙山で戦って西魏軍を撃破した(邙山の戦い)。 |
| 545年(武定3年)、爾朱文暢・任胄・鄭仲礼・李世林・房子遠らが高歓の暗殺を計画したが、薛季孝の密告によって漏れ、一党は処刑された。 |
| 546年(武定4年)、西魏の韋孝寛の守る玉壁城を攻撃したが、落とすことができずに撤退した(玉壁の戦い)。 |
| 子の太原公高洋を鄴に駐屯させ、嫡子の高澄を晋陽に駐屯させた。 |
| 高歓は自ら都督中外諸軍事の任を解くよう申し入れ、孝静帝に許された。 |
| 斛律金に「勅勒歌」を作らせ、高歓も自ら唱和して涙を流した。 |
| 547年(武定5年)1月、高歓は晋陽で死去した。 |
| 6月になって孝静帝が東堂で葬礼をおこなった。 |
| 仮黄鉞・使持節・相国・都督中外諸軍事・斉王の位を追贈された。 |
| 鄴の西北にあたる漳水の西の地(義平陵)に葬られた。 |