| 1988年4月18日、プロデビュー。 |
| 秋山昭次に1回1分53秒KO勝ちを収めた。 |
| この試合のみフライ級、本名「鬼塚隆」としてリングに上がった。 |
| 1988年6月20日、プロ2戦目で加田智に1回KO勝ち。 |
| この試合からリングネームを「鬼塚勝也」に改めた。 |
| 1988年12月21日、東日本ジュニアバンタム級(現・スーパーフライ級)新人王獲得。 |
| 1989年2月27日、全日本ジュニアバンタム級新人王獲得。 |
| 1990年5月22日、杉辰也を7回TKOに降し、世界ランク入り。 |
| 1990年10月15日、日本王座初挑戦。 |
| 日本ジュニアバンタム級王者・中島俊一に挑み、10回TKO勝ち。 |
| その後、3度の防衛に成功し、1991年12月に王座返上。 |
| 世界ランキングもWBA・WBCとも1位に上昇した。 |
| 1992年4月10日、18戦全勝(16KO)の戦績を引っ提げ世界初挑戦。 |
| カオサイ・ギャラクシー(タイ)の引退によって空位となっていたWBA世界ジュニアバンタム級の王座決定戦に出場。 |
| タノムサク・シスボーベー(タイ)と対戦し、前半は劣勢に立たされるが、後半は巻き返す。 |
| 結果、僅差ながら12回判定勝ちで王座獲得に成功したが、判定に異議を唱える声が多く、「疑惑の判定」として物議を醸した。 |
| 1992年9月11日、初防衛戦。 |
| これが4度目の世界挑戦となる松村謙一と対戦し、4回に2度のダウンを奪った末の5回TKO勝ち。 |
| なお、この試合は7年ぶりの日本人同士の世界戦ということで注目が集まった。 |
| 1992年12月11日、2度目の防衛戦でランキング1位の指名挑戦者アルマンド・カストロ(メキシコ)と対戦。 |
| カオサイのラストファイトの対戦相手でもあったカストロは、そのカオサイからダウンを奪ったこともある強打者で、王者にとってはまさに世界王者としての真価が問われる試合でもあった。 |
| 初回こそ挑戦者の攻勢を許したが、それ以降は完全に主導権を握る。 |
| KOこそはならなかったものの、大差の判定勝ちを収めた。 |
| 特に最終ラウンド開始直後、明らかに判定で上回っているにも関わらずKOを狙い激しく打ち合う姿は賞賛され、この試合は鬼塚のベストバウトとも言われている。 |
| 試合後のリングで王者は「最強」と称された挑戦者を破った嬉しさから男泣きを見せた。 |
| 1993年5月21日、3度目の防衛戦。 |
| 「林小太郎」というリングネームで日本のリングを拠点に試合を行っていた林在新(韓国出身=京都・洛翠ジム所属)を挑戦者に迎える。 |
| 前評判では王者の楽勝が予想されたが、いざ試合が始まってみると、挑戦者のパンチが面白いように当たり、王者は大苦戦。 |
| 対する王者は9回に接近戦からの右で挑戦者の腰を落とさせる場面があったものの、それ以外は見せ場らしい見せ場はなかった。 |
| 結局、試合はKO決着には至らず判定に委ねられ、結果2-1で王者の防衛となったものの、採点を担当した3人のジャッジのうち鬼塚の勝利とした2人が日本人だったこともあり、「地元判定」とも称された。 |
| 原則として世界戦のレフェリー、ジャッジは地元判定を防ぐために王者、挑戦者以外の国が務めるが、この試合は林が日本のジム所属の為同国人対決とみなし日本人ジャッジが置かれた珍しい試合である。 |
| 林はこの判定を不服としリターンマッチを要求するが、その後バイクで事故を起こしリターンマッチは不可能になった。 |
| 1993年11月5日、4度目の防衛戦。 |
| タノムサクと1年7か月ぶりの再戦。 |
| タノムサクの世界ランキングはWBA・WBCとも1位に上昇し、指名挑戦者として鬼塚との再戦に臨んだ。 |
| 前回同様、フルラウンドに渡り、一進一退の攻防を展開。 |
| 僅差ではあったが、王者が12回判定勝ちを収め、返り討ちを果たした。 |
| 1994年4月3日、5度目の防衛戦。 |
| 当初は1位の李炯哲(韓国)と対戦する予定であったが、挑戦者側が父親の病気を理由に、試合を辞退。 |
| 代わって、4位にランクされる同じ韓国人選手の李承九が代役を務めた。 |
| 試合は5回に王者がプロデビュー以来初のダウンを奪われ、8回にも挑戦者の強打でダウン寸前にまで陥る。 |
| しかし、それ以外は王者が優位に試合を進め、12回判定勝ちを収めた。 |
| 1994年9月18日、6度目の防衛戦。 |
| 父親の病気を理由に4月の対戦を取り止めた李炯哲と改めて対戦。 |
| 一進一退の攻防に終始していたが、迎えた9回、挑戦者の連打に捕まる。 |
| コーナーに追い詰められ、挑戦者の連打を50発以上浴び続ける。 |
| ダウンを拒み、ガードを固めながら反撃の機会を伺うが、もはやその余力は残されていなかった。 |
| そして、この回2分55秒、遂にレフェリーが試合をストップ。 |
| この瞬間、2年5か月間保持してきた世界王座から陥落した。 |
| 試合後、右眼に異常があったことを自ら打ち明け、翌9月19日に現役引退を表明。 |
| その右眼は、後日の精密検査で「網膜剥離」と診断された。 |
| 実は、2年前から右眼の異常を感じていたが、当時はそれが元で引退に追い込まれるのを恐れ、誰にも話すことが出来なかったという。 |
| 帝京大学病院での手術自体は成功したが完治せず視力障害者に認定され障害者手帳を持っている。 |