| 牛込の日本語学校弘文学院にて松本亀次郎に日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。 |
| その間日露戦争について、授業中に戦争報道のニュース映画を観る機会があった。 |
| その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。 |
| その情景と中国人の反応を見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』)。 |
| 学校における細菌学のスライドを用いた授業において、当時の時事断片が余り時間に上映され、その中に処刑の場面があった、という記述もある(『藤野先生』)。 |
| 当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され日本の中学卒以上の学力があるという条件は示されていた。 |
| 、魯迅は無試験で入学しているが、当時の医学専門学校は卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技日本人学生でさえ入学者100名に対し卒業試験まで至る学生は50名に過ぎなかった。 |
| 『藤野先生』によると、初年度の試験で魯迅は百人中まんなかへんで、落第はせずにすんだ、得点は六十だった、とある。 |
| であった。 |
| 当時周には多額の奨学金その額は金400円にのぼる。 |
| この他学費は全額免除されていた。 |
| 当時の400円は中学校の教員の収入を優に超えるものであった。 |
| が支給されており、夏目漱石など日本の小説の読書に熱中していた。 |
| 街で遊興に耽ることもあり、自身も「当時、私は一向に不勉強」と述べている。 |
| さらに二年度に進むと学年試験の成績について同級生から試験問題の漏洩を疑う不当な流言があり初年度からの授業の担当だった解剖学の藤野厳九郎教授が、好意から魯迅のノートを添削してくれていたためにそういう疑いを持った学生がいたらしい。 |
| 、この疑いは晴れたものの、中国人留学生である自分の語学能力への差別感情を感じたようである。 |
| そのような状況下で中国人が処刑される情景に出会ったことが進路を考え直す契機を与えたものであろう。 |
| 1906年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を始めるが、文筆は滞っていた。 |
| そこに友人の金心異に小説を書くよう勧められて、魯迅は次のように答えている。 |
| これは当時の故国の社会を絶対に壊せない鉄部屋に、人々をそこで熟睡したまま窒息して逝こうとしている人々に例え、かなわぬ望みを抱かせる小説など、書かない方がよいのではないか、と言う。 |
| それに対して金心異は、「起きた者が数人でもあるのなら、その鉄部屋を壊す希望が絶対無いとは言い切れないのではないか」といった。 |
| 魯迅はこうして最初の小説『狂人日記』を書いた。 |
| (『吶喊』自序)。 |
| 帰国後は、杭州・紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。 |
| さらに政府の移転に伴い北京へ転居。 |
| 1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。 |
| 以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。 |
| また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。 |
| 中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業を進めていた。 |
| その蓄積にもとづいて神話伝説から清末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。 |
| 中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。 |