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プロフィール
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- 単著
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- 編著
- 翻訳
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鶴見俊輔(つるみしゅんすけ、1922年6月25日-)は、評論家、哲学者、大衆文化研究者、政治運動家。
経歴
| 鶴見祐輔の長男として東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。 |
| 俊輔という名は父親の命名で、伊藤博文の幼名による新藤謙『ぼくは悪人』p.12。 |
| 厳格な母親に反発していた。 |
| 父の計らいで1938年に単身渡米し、同年9月、マサチューセッツ州コンコードのミドルセックス・スクールに入学。 |
| 全寮制の寄宿舎で9ヶ月間の勉強を経て大学共通入学試験に合格。 |
| 16歳のとき身元引受人アーサー・M・シュレジンジャー・シニア(アーサー・シュレジンジャーの父)の勧めでハーヴァード大学に進学、哲学を専攻。 |
| ホワイトヘッドやラッセル、クワイン、カルナップに師事。 |
| 大学では成績優秀で、1000人いる同級生の中の上位10%に入っていたため、3年で卒業可能の飛び級コースに入る鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p.28。 |
| 18歳の時には、当時働いていたニューヨークの図書館でヘレン・ケラーと一度会い、言葉を交わしている。 |
| この頃、ハーヴァードの経済学講師の都留重人と出会い、プラグマティズムを学ぶことを勧められる。 |
| 都留は生涯の師となった。 |
| 1941年12月8日に日米開戦。 |
| 1942年3月末、大学の第3学年前期が終わったとき無政府主義者としてFBIに逮捕され、東ボストン移民局留置場を経て、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。 |
| この間、後期はまったく授業に出れなかったが、収容所から提出した卒論が受理され、19歳のときSummaCumLaudeラテン語で、最上位から5-30%程度の成績での卒業生であることを意味する。 |
| の成績でハーヴァードを卒業。 |
| 1942年6月、日米交換船グリップスホルム号と浅間丸に乗ってロレンソマルケス経由でアメリカ留学から帰国。 |
| ただしこれは強制退去ではなく、送還か収容所送りかの選択を迫られて鶴見自身が決めたことであった。 |
| 収容所にとどまれば食事の心配がないのに敢えて帰国を選んだ理由について鶴見は「(収容所にとどまれば)敗戦後の日本に帰るときには大変に後ろめたい思いをしなきゃいけない」「アメリカに残っていたら、収容所といえども飯は結構困ることないんだよ。 |
| イタリア人のコックだし。 |
| 私にとって(収容所の)飯は旨かったんだよ。 |
| だけどそれを戦争の終りまで─負けることは判ってる─終りまで、これを食い続けるのは悪いなという気がしたんだよ」と説明しているETV特集『鶴見俊輔~戦後日本 人民の記憶~』(NHK教育テレビ、2009年4月12日)での発言。 |
| 第二次世界大戦時には結核持ちであるにもかかわらず徴兵検査に合格したため、徴兵を避けるために海軍軍属に志願し、1943年、インドネシアのジャワ島に赴任。 |
| 主に敵国の英語放送の翻訳に従事。 |
| 1944年12月、胸部カリエスの悪化により帰国。 |
| 敗戦を日本で迎えた。 |
| 戦後、海軍を除隊後に『思想の科学』を創刊し、『共同研究 転向』など思想史研究を行う。 |
| アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後言論界の中心的人物とされる。 |
| 京大助教授時代、1951年にはスタンフォード大学から助教授として招聘されたが、原水爆反対運動に関与したことが神戸市の米国総領事館から問題視されて米国への入国を拒否され、その後一度も渡米していない。 |
| ベトナム戦争期は「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の中心的な人物として活躍した。 |
| ただしマルクス主義者ではなく、「私は日本にいたときからクロポトキンを一生懸命読んでいた。 |
| クロポトキンにはマルクスに対する偏見がありますから、それが、私がマルクス主義者にならない、一種の予防注射になった」鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p.24と述べている。 |
| 反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。 |
| だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。 |
| 戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。 |
| 鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』(新曜社、2004年3月)p42-p135。 |
家族
| 父は前述の通り鶴見祐輔であり、政治家後藤新平は母方の祖父にあたる。 |
| 社会学者である上智大学名誉教授の鶴見和子は姉。 |
| 鶴見直輔は弟。 |
| 英文学者・翻訳家の横山貞子は妻。 |
| 息子の鶴見太郎は早稲田大学文学部准教授。 |
| 『ナマコの眼』等で知られる人類学者の鶴見良行は父方の従弟。 |
| 獄中転向で有名な元日本共産党委員長の佐野学は母方の叔父。 |
| 共産党系演劇人でインターナショナル訳詞者の佐野碩と、武装共産党時代の党指導者だった佐野博は母方の従兄。 |
エピソード
| 筑摩書房の編集者松田哲夫によると、鶴見は専門の哲学はもとより、「マンガやジャーナリズム、近代史について、とてつもない知識」を持っていたという。 |
| 『ちくま日本文学全集』の編集作業の際、鶴見が5歳の時からの膨大な既読書の内容をすべて覚えており、「古典的名作だけにとどまらない、例えば赤川次郎作品すべて」にまで及んでいることが判明した。 |
| これには名だたる読書人揃いの他の編者たち(安野光雅、森毅、井上ひさし、池内紀)も唖然としたという(松田著『編集狂時代』より)。 |
| 「人の下積みになれ」と説く母への反撥もあり、2年半に及ぶ米国留学時代には学校の成績に大変こだわる面があったことを自ら認め、これを「一番病」と名付けて自己批判している鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p.20。 |
| 鶴見によると、この「一番病」を攻撃することが長らく自らの戦略となり、物を書いていく源泉になっていたという。 |
| その結果として大衆文化に着目し、大衆文化の表現形式として漫画を重視し、漫画評論の先駆けの一人となった。 |
| 漫画の中では山上たつひこの『がきデカ』を高く評価し、「あの『がきデカ』というのがみんなに読まれているうちは、ああ、日本人にはこういう人がいるんだな、日本ってこんなんだなという自画像をもっているうちは、まだまだ安全だと思っているんですよ。 |
| 「正義のために戦え」とか、「聖戦」とかいうふうにして戦争の態勢をつくるところまでにはまだ一歩あるなという感じがするのです」鶴見俊輔「マンガの歴史から」「こういうふうに金とセックスだけを追い求める人間が活躍するわけでしょう。 |
| ああ、日本人はこうなんだな、こういう人間がたくさんいるんだなと思って大人になることがいいんです。 |
| 日本人は神の子で、万邦無比の国体なんだと思って海外に出ていったら困るんですよ。 |
| 『がきデカ』を読んでいれば、ちがった人間になるんじゃないかという希望をもっています」鶴見俊輔「日本のマンガの指さすもの」と述べている。 |
| テレビ番組『ハケンの品格』がお気に入りで、軍属時代に翻訳と新聞発行を一手に引き受けていた自分と、同番組で描かれていた派遣社員とが重なって見えると語っている。 |
| 『論座』2007年4月号(朝日新聞社)。 |
| 敬虔なキリスト教徒であった母親への反撥,戦争推進を主張していた一部の僧侶や牧師への不信感から、宗教に反感を持っていたが、仏教徒の文化人との交流の中で仏教に理解を示すようになり、「かくれキリシタン」ならぬ「かくれ佛教徒」と自称するようになった。 |
批判
| 蓮實重彦・上野昂志・スガ秀実らは座談で、鶴見が左翼系知識人にすりよりながら、いつも左翼にならないこと、また蓮實重彦は「動体視力」つまり映画や文学を語る時の視力が鶴見には決定的に欠けており、それゆえ、鶴見の文化評論がことごとく無内容なものになっていると批判している「1968(知の攻略思想読本)」作品社2005年所収。 |
略年譜
| 1922年東京市麻布区三軒家町53番地(現在の東京都港区元麻布)に生まれる。 |
| 1929年東京高等師範学校附属小学校入学現在の筑波大学附属小学校。 |
| 同級生には後の文部大臣の永井道雄、後の中央公論社社長の嶋中鵬二、作家の中井英夫など。 |
| 1935年府立高等学校尋常科入学。 |
| 1936年同校退学、東京府立第五中学校(現・都立小石川高校)の編入試験に合格。 |
| 1937年5月、府立第五中学校退学。 |
| このころ家出をする。 |
| 1938年アメリカマサチューセッツ州コンコード町ミドルセックススクール入学。 |
| 1939年ハーバード大学哲学科入学。 |
| 1942年同科卒業(学士論文「ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズム」)。 |
| クワインの最初の門下生。 |
| 戦時交換船で日本に帰国(数学者角谷静夫と同じ船に乗り合わせていた)。 |
| 船内で20歳になり、帰国後に徴兵検査で結核持ちであるにもかかわらず、第二乙種合格となる。 |
| そのため、召集令状(赤紙)が届く前に、徴兵逃れのため海軍の軍属に志願し英語翻訳者としてジャワ島に赴任したが、軍属であるため戦闘行為には携わっていない。 |
| 1948年桑原武夫の紹介で京都大学嘱託講師となる。 |
| 1949年京都大学人文科学研究所助教授。 |
| 1960年日米安保条約決議に抗議し東京工業大学教授退官。 |
| 1961年同志社大学文学部社会学科教授。 |
| 1970年大学紛争で同志社大学教授を退任。 |
| 2004年6月、大江健三郎や小田実らと共に九条の会の呼びかけ人となる。 |
単著
| 『哲学の反省』先駆社1946。 |
| 『アメリカ哲学』世界評論社、1950のち講談社学術文庫。 |
| 『哲学論』創文社1953。 |
| 『アメリカ思想から何を学ぶか』中央公論文庫1958。 |
| 『折衷主義の立場』筑摩書房1961。 |
| 『高野長英』朝日新聞社・朝日評伝選、1975のち選書のち『評伝高野長英1804-50』藤原書店。 |
| 『柳宗悦』平凡社選書、1976のち平凡社ライブラリー。 |
| 『人類の知的遺産60デューイ』講談社1984。 |
編著
| 『老いの発見』全5巻伊東光晴,河合隼雄,副田義也,日野原重明と共編岩波書店1986-1987。 |
| 『新ちくま文学の森』全16巻安野光雅,森毅,井上ひさし,池内紀共編 筑摩書房1994-1996。 |
| 『戦後史大事典1945-2004』佐々木毅,富永健一,中村政則,正村公宏,村上陽一郎と共編三省堂2005。 |
翻訳
| 『社会契約論』ルソー岩波書店,1954(桑原武夫ら13人の共同訳者の一人)。 |
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1922年
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鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ)は、評論家、... |
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1938年
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単身渡米し、同年9月、マサチューセッツ州コ... |
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