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プロフィール
- 鹿内信隆とは
- 生い立ち
- 学生時代
- 陸軍~日経連専務理事
- メディアの支配者
- 鹿内と信州財界
- エピソード
- 略年譜
- 家族・親族
- 系譜
- 関連サイト
鹿内信隆(しかないのぶたか、11月17日-10月28日)は、日本の実業家。フジサンケイグループ会議議長。
生い立ち
| 北海道夕張郡由仁町に父・鹿内徹、母・モヨの長男として生まれた佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』230頁には「鹿内信隆に関する評伝は十指にあまるが、その出生地は自伝も含め、北海道夕張郡由仁町とされている。 |
| しかし鹿内家のそもそものルーツは留萌郡留萌町で、鹿内信隆は父・徹、母・モヨとの間の長男として明治四十四年十一月、この地に生まれた。 |
| 」とある。 |
| 札幌から南東へ車で一時間ほどの由仁町は、夕張川が流れる石狩平野の東端に位置する。 |
| 『由仁町史』によれば“和人”によって開墾されたのは、のことであり、信隆が生まれたころは人口6000人の村だった中川一徳著『メディアの支配者(上)』234頁。 |
学生時代
| 1924年岩見沢中学に進むと弁論部に入って主将を務め、自身を「小生意気な子どもであった」と述懐している中川一徳著『メディアの支配者(上)』235頁。 |
| 1929年単身上京し早稲田第一高等学院に入学する。 |
| 早稲田時代には演劇に熱中、左翼的空気の中で脚本、演出を勉強し、仲間には後に社会派の巨匠となる映画監督の山本薩夫らがいた。 |
| 3年後には早稲田大学政経学部に進み、財政学を専攻した。 |
| 「政経攻究会」という研究サークルに所属しこのころのあだ名は“図書館ゴロ”だった。 |
| 中川一徳著『メディアの支配者(上)』235-236頁。 |
| 1936年早稲田大学を卒業し倉敷絹織(現クラレ)に入社した。 |
| 就職のあてがなかった信隆に世話を焼いたのは、早大教授で東京日日新聞の副主筆も務めていた阿部賢一(のちの早大総長、徳富蘇峰娘婿)で、倉絹専務菊池寅七に信隆を預けた。 |
| 後に信隆の岳父となる菊池はオーナーである大原の代わりに事実上の社長を務めていた。 |
| 四国の工場に配属されたが、菊池と倉絹の副社長が軍需をあてこんだ特殊金属を扱うために創立した三徳工業に移った。 |
陸軍~日経連専務理事
| 1938年応召し、予備役召集第1回の士官候補生となり牛込区若松町に置かれていた陸軍経理部に進み、のち主計少尉。 |
| 軍務時代慰安所設置などに尽力(本人著「いま明かす戦後秘史」に詳しい)。 |
| また、日清紡の営業部長で軍と折衝していた桜田武や大日本再生紙社長の水野成夫らと、需給計画を通じて知り合う事になる。 |
| 岩畔豪雄をリーダーとする陸軍戦備課は1938年、軍用の製紙会社・国策パルプを設立し、続いて水野と南喜一を支援して1940年大日本再生製紙を設立するが、鹿内はその担当事務官であった松浦行真『人間・水野成夫』サンケイ新聞社出版局1973年、巻頭アルバム集6頁、300-328、384、385、水野成夫を偲ぶ1-19頁桜田武・鹿内信隆共著『いま明かす戦後秘史』(上巻)、サンケイ出版、1986年、71-76頁大宅壮一『大宅壮一全集第13巻』蒼洋社、1981年、123-126頁。 |
| ただ、水野は岩畔との関係からインド独立工作に一生懸命で、水野に会ったのは戦後だという。 |
| 除隊後の1943年、鮎川義介の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立、戦後の経済同友会創設に参画。 |
| 戦時中から仕事の付き合いがあった桜田が鹿内を非常に買い、関東経営者協会の発足で、桜田委員長=鹿内信隆副委員長という労務問題でのコンビを成立させ、これが1948年4月の日本経営者団体連盟(日経連)設立に至る鹿内信隆『鹿内信隆は語る―理想なきものに創造性は生まれぬ』講談社、1986年、18-25頁鹿内信隆『指導者 カリスマの秘密』講談社、1985年、256-286頁文藝春秋、1969年4月号、188-201頁。 |
| 桜田は日本電子工業の常務だった鹿内を引き抜いて、日経連の初代専務理事として迎えて、桜田総理事=鹿内専務理事として再びコンビを組み、戦後の約10年を日本共産党に指導されて各地で起ったラジカルな労働争議を闘った。 |
| また桜田の師匠・宮島清次郎が若手財界人を束ねて帝大同期の吉田茂政権を支援したことから、桜田を通じて政財界人脈を拡げることになる阪口昭『寡黙の巨星』日本経済新聞社、1985年、154-159頁。 |
| 戦後の混乱期に「財界四天王」らと共に「財界主流派」の中心メンバーとして、戦後の日本経済の基盤作りを行い、政財界の舞台裏を取り仕切った人物の一人である福本邦雄『表舞台裏舞台―福本邦雄回顧録』講談社、2007年、33、34、235頁田原総一朗『戦後財界戦国史総理を操った男たち』講談社、1986年、9-23、56-75頁。 |
| 鹿内自身「私のいちばん記録に残すべき時代は日経連時代なんです」と述べている。 |
メディアの支配者
| 1954年のニッポン放送設立に加わり、1957年文化放送にいた水野と協力してフジテレビを開局させた。 |
| 1968年、産経新聞社社長・フジテレビ会長に就任。 |
| 1969年、箱根彫刻の森美術館館長・フジサンケイグループ会議初代議長を務め、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。 |
| 1982年、郵政官僚出身の浅野賢澄にフジテレビ会長のポストを譲る。 |
| 1984年フジサンケイグループ最高顧問の座に就いた。 |
| しかし1988年、長男の鹿内春雄が逝去したことを受け、再び議長の座に再就任。 |
| 1990年10月28日死去。 |
鹿内と信州財界
| 鹿内の人生であまり知られていないものの一つに信州財界との関わりが挙げられる。 |
| 鹿内がフジサンケイグループの総帥として財界で大きな影響力を持つように至ったのは信州財界による橋渡しがきっかけだった。 |
| 1950年に関西を地盤としていた産業経済新聞が東京に進出。 |
| 5年後の1955年に別法人として株式会社産業経済新聞東京本社を設立すると共に同社社長として勝田重太朗を招請した。 |
| 勝田は信越放送社長を務めており、それ以前には信州・長野県を代表する新聞社である信濃毎日新聞社の役員を務めていた。 |
| 相前後して産経社長だった前田久吉が経営に携わっていた時事新報(※福澤諭吉が創刊したが、東京日日新聞に合同していたのを戦後に復刊)を吸収合併し産経時事(東京のみ。 |
| 大阪は産経新聞と改題させてとりあえず軌道に乗せている。 |
| ここから産経と信州財界のルートが生まれた。 |
| 1956年に水野成夫社長の求めで、信越放送での勝田の後任社長だった野沢隆一が文化放送の専務に就任。 |
| 文化放送はニッポン放送と共同でテレビ局を作るべく奔走しており、当時ニッポン放送の役員だった鹿内はそれを通じて水野と関わりを持ち、更に水野を介する形で信州財界とのつながりができた。 |
| 1958年に前田が経営難を理由に産経を手放すと、当時信越化学工業(信毎と資本的には同系列)常務だった小坂徳三郎(のちに信毎社長)が経営再建のため鹿内を水野と共に送り込もうと工作。 |
| これが実現し、鹿内は常務として産経新聞の経営に関わることが出来た。 |
| 鹿内(一族)と信州財界は太いパイプで結ばれており、鹿内自身が信州財界に感謝していた証拠もさまざまな形で残っている。 |
| 信越放送がラジオの24時間放送を開始した際にニッポン放送の「オールナイトニッポン」をネットするなど、フジサンケイグループ系列のラジオ局の番組を優先してネットしてもらえるようになり、長野放送が設立された際ニッポン放送からNBSという略称を譲渡され、さらにフジテレビの番組を優先的にネットしてもらえる様になり(結果マストバイ局化が在長民放局の中で早く進んだ)、長野県上田市武石地区(旧小県郡武石村)の美ヶ原高原に鹿内自身が館長を務める彫刻の森美術館の姉妹館として美ヶ原高原美術館がオープンし長野県を代表する観光スポットとなった。 |
エピソード
| 愛称は「ハイジャッカー」。 |
| 名付け親は、司馬遼太郎(当時、産経記者)といわれる『週刊ポスト』2009年6月5日号。 |
| 役員を務めていた会社には労働組合を作る事はおろか存在も認めず、作ろうとする者には解雇・配転という形で妨害行為を行った。 |
| それ故一部の保守論客からも不評を買っている。 |
| 産経では主流派の御用組合化に反発した社員が“闘う”組合(反リストラ・マスコミ労働者会議産経委員会、通称「反リストラ産経労組」 |
| 後に社長を務めた日枝久や横澤彪などのフジテレビ関係者が後に「恐怖政治だった。 |
| 」と回顧する程であったが、五社英雄は信隆シンパであったという。 |
| 一時フジテレビの制作部門が本体から切り離され、子会社として設置した「ワイドプロモーション」所属の社員として本体社員よりも(待遇・給与面において)一ランク下の位置付けで扱われるに至ったのも制作部門の社員に労組の幹部が多数在籍していたことから、部門全体に連帯責任をかぶせる意味合いで採られた措置であるとされている(のちに「ワイドプロモーション」は「フジ制作」に名称を変更、1980年に本体に吸収されこれによりフジテレビ内の制作部門が完全復活した)。 |
| 社長時代は、フジテレビ・ニッポン放送では正社員にあたるアナウンサーへの女性の採用を禁じ、派遣社員クラスにあたる報道局所属のレポーターとしての採用いわゆる抜け穴採用。 |
| 1975年入社の田丸美寿々や1977年入社の城ヶ崎祐子、益田由美は1981年3月までアナウンサーではなかった。 |
| 1981年入社の本間淳子からは正社員として採用している。 |
| や、25歳での結婚退社を強制した。 |
| ただし、議長に復帰した1988年は男女雇用機会均等法の制定後であったことから、長男の春雄が行った女性差別制度廃止の措置を撤回させることはできなかった。 |
| 「新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢が成っているでしょうか」「敢然と守ろう『自由』、警戒せよ、左翼商業主義!」(産経新聞創刊に際して広告主向け説明会で発言)。 |
| 1973年、サンケイ紙上に「正論」欄登場(のちに論壇誌として独立する)。 |
| 右派・タカ派知識人を総動員して反共・国家主義を提唱。 |
| 余談だが、1973年6月に、当時のフジテレビの人気歌謡番組「夜のヒットスタジオ」で「共産党バンザイ」発言を行った前田武彦が同年秋の改編で司会を降板したのも、右の前田の発言・行動が鹿内の「反共」の考え方と相容れないものであると判断されたことによるものと言われている。 |
| 各マスコミは前田に対する批判を展開する論調がある一方で、「鹿内の考えに合わない人間を徹底排除する」という鹿内体制下のフジサンケイグループの企業体質に対して徹底的に問題提起を行う論調もあるなど、「共産党バンザイ事件」は単なる一番組内での不祥事という範疇を超え、マスコミ業界全体の論調を二分させる事態となった。 |
| 1978年5月、編集主幹として、編集の全権を掌握(通常・新聞社においては経営者と編集者は兼務しないことになっている)。 |
| 1989年10月、10億ともいわれる巨費を投じて、ロナルド・レーガン米前大統領(当時)を招待し、産経新聞では20ページからなる特集記事を掲載。 |
略年譜
| 11月17日-北海道夕張郡由仁町に生まれる。 |
| -早稲田大学政治経済学部を卒業し倉敷絹織(現クラレ)に入社。 |
| -三徳工業に入社、その後、札幌歩兵第二十五連隊に入隊。 |
| -陸軍経理学校卒業、主計少尉になる。 |
| 11月-フジテレビ専務に就任。 |
| 11月-フジテレビ副社長に就任、産経新聞社副社長に就任。 |
| 11月-産経新聞社副社長辞任、フジテレビ社長に就任。 |
家族・親族
| ;父・徹(歯科医、山師、宗教家)。 |
| 地元の小学校で信隆の弟妹たちを教えた林清造によれば、徹は歯科医の資格をとったものの、由仁町ではほとんど開業せず、出張治療という名目で日高方面に出向くことが多かったという。 |
| 「土地土地で治療費を稼いでは、その金で金鉱やクローム鉱のヤマ探しをしていた。 |
| いわば“ヤマ師”としての生活を送っていた徹は、宗教に凝りだし、タスキをかけ、メガホンを使って由仁町の辻々で、辻説法をして回った。 |
| 神道とユダヤ教をミックスしたようなその布教内容は、町の者にはまったく珍粉漢粉(ちんぷんかんぷん)だったという。 |
| 信隆は井深大との対談で、「(母は)自分で写真屋をやりながら、私の兄弟は六人ですが、みんな東京の大学を卒業させたんですよ」と述べている。 |
| 誉田は「鹿内さんが語るままに聞き返しもせずに一代記にしたけれども、父親は歯科医と称して実際は“山師”と言ったほうがよく、なにをしていたのかもわからないし、金鉱をあてたとも聞かない。 |
| それなのに、どうして六人全員が大学に行けたのか、そんな財力がどこにあったのか、実に不思議だった」と述べている中川一徳著『メディアの支配者(上)』238頁。 |
| 京都の有名な料亭で小説家夫妻と会食したとき、英子が、あんまり信隆をどこの馬の骨呼ばわりするので、小説家はあきれ果て、結局、この話を断わってしまったという。 |
| ;長男・春雄(元フジサンケイグループ会議議長)。 |
| 1945年(昭和20年)5月生~1988年(昭和63年)4月没。 |
| ;;妻・美津子(旧姓頼近、元NHKアナウンサー)。 |
| 1955年(昭和30年)8月生~2009年(平成21年)5月没。 |
| ;長女・寛子(女優奈月ひろ子、石川県能登の山林王で青年実業家と称するHと結婚するが後に離婚)。 |
| 誉田によれば「H家が山林王だったというのはウソではないが、登記簿を調べると片っ端から抵当に入っているし、青年実業家としてゴルフ場の計画を進めているといった話もよくよく聞くと怪しかったが、鹿内さんは娘かわいさのあまりそれもしようがないと…。 |
系譜
| ;鹿内家(北海道夕張郡由仁町)。 |
| 「父・徹はもともと留萌町で写真屋を営んでいたが、小学校もまともに終えていないところへ一念発起し歯科医を目指した。 |
| 徹とモヨは由仁町に移り住み、勉強に励む夫の代わりにモヨが当時としては珍しい女写真師として写真館を経営し家計を支えた。 |
| そうかと思えば昭和の初期には、神道とユダヤ教を融合させたような“鹿内教”ともいうべき怪しげな宗教に熱中した。 |
| 信隆は女写真師の草分けを母に、歯科医にして山師、宗教家を父に持つという一風変わった環境で育った。 |
| いずれにしろ幼少期に、信隆は留萌町から由仁町の鹿内家に引き取られたということになるのだろうが、その詳しい事情はいまとなっては判然としない。 |
| 元秘書の一人は「鹿内さんが養子になっていることは、業務の中で、戸籍や一族の関係図などを見た秘書は知っていたが、事情を知っている者は誰もいなかった」という。 |
| また誉田によれば、秘書室あてに、いわゆる情報屋とも興信所ともつかないところから、信隆の家系を調べた報告書が送りつけられたこともあった。 |
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