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プロフィール
- 鹿内春雄とは
- 生い立ち
- 学生時代
- フジサンケイグループへ
- 「FCG構想」
- 黄金期
- 早すぎた死
- エピソード
- 映画作品
- 関連サイト
鹿内春雄(しかないはるお、昭和20年(1945年)5月15日-昭和63年(1988年)4月16日)は、日本の実業家。フジサンケイグループ会議議長。初代議長 鹿内信隆の長男。妻の美津子( 頼近美津子)は元 NHKアナウンサー。姉は女優の 奈月ひろ子(旧姓・鹿内)。姪(姉・ひろ子の娘)は現フジテレビプロデューサーの 鹿内植。 鹿内宏明は義弟(妹・厚子の夫)。愛称は「議長」。
生い立ち
| 北海道夕張郡由仁町に父・鹿内信隆、母・英子の長男として生まれる。 |
| 幼少期はやや病弱だった。 |
| 母・英子は祈祷師(きとうし)への強い信心を抱くようになり、依存する状態が長く続いた。 |
| 春雄は小学生の時分から母子ともども祈祷を受け、祈祷師に「病の原因を体内から吸い出してもらう」のを習いとするようになった。 |
| 中川一徳著『メディアの支配者(下)』63頁。 |
学生時代
| エスカレータ式に慶應義塾高等学校に進学したもののやがて学業成績は低迷の度を増し、二年次に落第が必至となる。 |
| アメリカへ留学、ボストン大学に入学するも中退する。 |
フジサンケイグループへ
| 帰国後、経団連の植村甲午郎会長の秘書やニッポン放送勤務等を経て、1977年に産経新聞社取締役。 |
| 1986年に代表取締役会長、フジサンケイグループコミュニケーション会議議長に就任。 |
「FCG構想」
| 1985年に「FCG構想」を発表し、フジサンケイグループの統一シンボル『目玉マーク』の制定、テレビ放送の高品位化、産経新聞の紙面カラー化とタイトル刷新などメディア改革を行う。 |
| 父親である信隆が進めた「正論」路線は継承するものの、「行革」キャンペーンは社会的に不人気と見るや路線変更し、代わって「夢工場」や映画『ビルマの竪琴』『南極物語』など大衆に夢を売るキャンペーンに奔走した。 |
黄金期
| これから遡る1970年には、信隆が番組制作部門を日枝久などが旗揚げした労働組合潰しのためフジテレビから切り離していた。 |
| 制作部門に組合員が多く彼らは地方や関連会社に左遷され、現場は活気が無くなり視聴率は落ち込み低迷した。 |
| このとき組合書記長だった日枝久や横澤彪など、のちのフジテレビを支える実力者も例外なく左遷させられた。 |
| そんな父の姿を見てきた春雄は、父の反対を押し切り著名な放送作家などをブレーンにして機構改革を断行し外部委託だった制作部門を左遷させた社員とともに、フジテレビ編成局の下に戻し「編成主導」の番組制作を行った。 |
| 当時編成と制作を融合させた機構改革は斬新的でその後、各局がその方法を取り入れるようになった。 |
| また組合員の復権も行い実力があれば重用する人事も行った。 |
| その後の躍進に功績があった人物を後継者におき日枝久も40代であったが役員に抜擢した。 |
| こうした実力主義による改革はフジサンケイグループ内では制作部門を中心に強力な支持を受け、フジサンケイグループは父・信隆による硬派路線を脱却して「軽チャー路線」とも呼ばれる黄金期を迎えることになる。 |
早すぎた死
| 1988年4月16日、肝炎の発症等により42歳の若さで急逝。 |
| 『厚子手記』によれば、「兄があんなに早く亡くなったのも、母の信仰がその理由の一つなのではないかと思っています。 |
| 兄は亡くなる八年前にB型肝炎を患っていました。 |
| …ところが母は、西洋医学や病院を信じないので一切見せない。 |
| …N先生の作る漢方薬しか与えないのです。 |
| 病院につれていって、しっかりした医療処置さえとっていれば、兄があんなに早く亡くなることはなかったのではないかと私には思えてならないのです」という。 |
| 中川一徳著『メディアの支配者(下)』148頁。 |
エピソード
| 八木亜希子元フジテレビアナウンサーのフジテレビ入社最終面接で、“ミュージカルが得意”と履歴書に書かれていた文言に目を付け、その場で実際に踊らせた。 |
| オレたちひょうきん族のコーナー、タケちゃんマンの話の中で、明石家さんまと渡辺正行が博打(正確にはポーカー)をするシーンがあったが、その中で渡辺が「ロイヤルストレートフラッシュ」を決めた途端「鹿内・鹿内・鹿内」と、3つのカードを出し、勝つという流れになった。 |
| 死後に「鹿内春雄遺稿集」が社員全員に配られた。 |
| いわゆる「ジュニア」であり、フジサンケイグループ各社への要職に就いた時期もリストラの最中に行われたという「七光り」振りであったが、経営手腕は上記の如く信隆とはまた異なる評価を得ることになった。 |
| 経営方針など信隆とは異なるところもあったが、春雄自身は信隆を大いに尊敬しており、「尊敬できる人物は親父だけ」、「日本のUHFテレビを作ったのは親父」と公言していた。 |
| リオデジャネイロを観光した際、豪華ヨットでサンバショーを体験した。 |
| 後年、大成功したイベントであるコミュニケーションカーニバル夢工場'87の発想はこの時に生まれたものであると語っている。 |
映画作品
| 1985年4月27日 『CHECKERSINTANTANたぬき』。 |
| 1985年7月13日 『Dr.スランプアラレちゃんほよよ!夢の都メカポリス』。 |
| 1985年7月20日 『ビルマの竪琴』。 |
| 1985年12月21日 『ゲゲゲの鬼太郎』。 |
| 1986年3月15日 『ゲゲゲの鬼太郎妖怪大戦争』。 |
| 1986年7月12日 『ゲゲゲの鬼太郎最強妖怪軍団!日本上陸!!』。 |
| 1986年7月12日 『子猫物語』。 |
| 1986年10月10日 『時計Adieul'Hiver』。 |
| 1986年12月20日 『ゲゲゲの鬼太郎激突!!異次元妖怪の大反乱』。 |
| 1986年12月20日 『ドラゴンボール神龍の伝説』。 |
| 1987年4月11日 『いとしのエリー』。 |
| 1987年8月29日 『ハワイアン・ドリーム』。 |
| 1987年7月18日 『ドラゴンボール魔神城のねむり姫』。 |
| 1987年9月26日 『竹取物語』。 |
| 1987年10月24日 『光る女』。 |
| 1987年11月21日 『永遠の1/2』。 |
| 1987年11月21日 『私をスキーに連れてって』。 |
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1970年
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信隆が番組制作部門を日枝久などが旗揚げした... |
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1977年
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産経新聞社取締役 |
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つながりの強いひと
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鹿内信隆
親
日本の実業家。フジサンケイグループ会議議長。 |
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日枝久
株式会社フジ・メディア・ホールディングス代表取締役会長および株式会社フジテレビジョン(CX)代表取締役会長。高麗大学(韓国)の名誉経営学博士。 |
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鹿内宏明
鹿内宏明(しかないひろあき、1945年(昭和20年)5月26日- )は日本の実業家。元・フジサンケイグループ会議議長。初代議長鹿内信隆の娘婿である。旧姓佐藤... |
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鹿内雅雄
「試験前に大学を訪れ たとき、勉強に専念できる環境で、これなら頑張れると思いました。仲間のみんなも 真面目で、努力する人ばかり。将来、国際警察に入り... |
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市川崑
市川崑(いちかわこん、幼名:市川儀一、1915年(大正4年)11月20日-2008年(平成20年)2月13日)は日本の映画監督。娯楽映画から実験的映画、更にはテレビ時... |
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小川宏
東京都墨田区出身のフリーアナウンサー・司会者。NHKの元アナウンサー。 |
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蔵原惟繕
日本の映画監督。文芸評論家・蔵原惟人はいとこおじ、映画監督・蔵原惟二は実弟にあたる。 |
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豊田皓
フジ・メディア・ホールディングス代表取締役社長およびフジテレビジョン代表取締役社長。 |
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色彩学についても多少は知って おきたいもの。 また、人は色から大きな影響を受けて、選ぶ色しだいで印象が大きく 変わります。 そんな色の持つ「力」につい... |
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浅野賢澄
日本の実業家。フジテレビジョン(現:フジ・メディア・ホールディングス)社長→会長。日本民間放送連盟5代目会長。元郵政事務次官。岐阜県出身。 |
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村上光一
株式会社フジテレビジョン相談役。東京都出身。 |
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中井貴一
東京都世田谷区出身の俳優。本名同じ。血液型はA型。身長181cm、体重70kg。成蹊大学経済学部卒業。所属事務所はオフィス貴貴。 |
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日本の評論家、ドイツ文学者、小説家。日本芸術院会員。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。 |
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中川一徳
中川一徳(なかがわかずのり、1960年-)はフリージャーナリスト。 |
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水野成夫
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小林節
東京都出身の日本の憲法学者・慶應義塾大学教授、特認弁護士(期外)。日本公法学会、日米法学会、国際憲法学会、比較憲法学会、全国憲法研究会、国際人権法... |
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高倉健
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鹿内春雄さんについてのひとこと紹介
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