| 三公から招聘を受けたが、孫堅が挙兵するとこれに従い、荊州南部の反乱や董卓討伐に活躍し、別部司馬に任命された。 |
| 孫堅の死後は孫策に仕え、孫策の江東制覇に従った。 |
| 孫策が劉表と黄祖の征伐の報告をした時の上奏に、呂範や程普・孫権・韓当と共に黄蓋の名もある(「孫破虜討逆伝」が引く『呉録』)。 |
| 孫策が早世すると、跡を継いだ孫権にも仕えて若い主君を支えた。 |
| 黄蓋は自ら甲冑をつけ、刀剣をふるって各地の反乱を鎮圧し、城を攻略した。 |
| 統治が困難な地域には黄蓋が長官として任じられ、石城県、春穀県、尋陽県など9つの県に赴任し、丹陽の都尉にまでなった。 |
| 法令に厳格な処罰を行いつつも、強きを抑えて弱きを助ける統治を行ったため、どの地も無事に平定され、土着民族たる山越までもが信服し、人々は平穏に暮らした。 |
| 風貌に威厳があり、兵卒に優しく接したため、軍を率いた時には兵士達は命を揮って戦うようになった。 |
| 建安12年(208年)、曹操が江南に進軍して赤壁の戦いが始まると、黄蓋は周瑜の指揮下で従軍した。 |
| 曹操軍の艦船を焼き討ちすることを進言し、偽りの投降を用いた火攻めで曹操軍を攻め立て、曹操軍の艦船と岸辺の軍営を焼き払った。 |
| この火攻めの際、黄蓋は流れ矢に当たって長江に落ちてしまい、救い上げられたものの、黄蓋とわからなかったために、負傷したまま厠に放置されてしまった。 |
| しかし、同僚である韓当が見つけて手当てさせたため、九死に一生を得たという(「周瑜伝」、「韓当伝」)。 |
| この功績で、武鋒中郎将に任命された。 |
| 武陵蛮が反乱を起こすと、黄蓋が武陵太守に任命され鎮圧の任にあたることになった。 |
| 郡の兵士は500人程であったが、賊軍を城門に誘い込んで撃退し反乱を鎮圧した。 |
| この時、首謀者以外の罪は問わなかった。 |
| 反乱を鎮めると、これまで益州に服していた巴、醴、由、誕の部族も誼を通じてくるようになった。 |
| 山越の反乱者に長沙郡益陽県を攻められるとそれも平定し、偏将軍に昇進する。 |
| その後、黄蓋は病に伏せりそのまま病没した。 |
| 黄蓋は決断力があり、事務を長期間滞らせることがなかったため、孫権領内の人々は彼を偲び、孫権は子の黄柄に関内侯の爵位を授けた。 |
| 『呉書』によると、肖像画を描いて季節ごとにお祭をした人々もいたという。 |
| 没年は不明だが、死後その配下の軍勢は、同時期に亡くなった孫瑜の軍と共に、孫皎が指揮をしたとあるため(「宗室伝」)、孫瑜が亡くなった215年の時点では、黄蓋は既に死去していたことが確認できる。 |
| 『安南志略』巻7には黄蓋が呉の日南太守となったが、貪欲であったため追放されたという記述がある。 |
| 具体的な根拠や前後の脈絡は不明であるが、黄蓋生存時に黄蓋が日南に赴任した形跡がみられない為、誤りもしくは同姓同名の別人の可能性が高い。 |