| 天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が自刃すると、父と共に秀吉に仕える。 |
| 秀吉の備中高松城攻めに従い、中国地方の毛利氏と戦った(備中高松城の戦い)。 |
| 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて、河内国に450石を与えられる。 |
| 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは父と共に大坂城の留守居を務めた。 |
| その功績により、2千石を与えられる。 |
| 天正15年(1587年)の九州の役では長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。 |
| 戦後、父子の功績をあわせて豊前国中津に12万5,000石を与えられた。 |
| 天正17年(1589年)、父が隠居したために家督相続を許され、同時に従五位下、甲斐守に叙任した。 |
| 文禄元年(1592年)から行なわれた秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役では渡海している。 |
| 長政は5千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正等とは別の進路を取る先鋒となった。 |
| 釜山上陸後は金海、昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺、永同、文義、清州、竹山を進撃して5月7日に漢城へ到達した。 |
| 5月初旬の漢城会議で黄海道を任された三番隊は、平安道担当の一番隊と共に朝鮮王の宣祖を追って開城を攻略した。 |
| 6月15日の大同江の戦いでは朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた宗義智の軍勢を救援し、長政は負傷するも大いに奮戦し朝鮮軍を破った。 |
| 翌16日敗退した朝鮮軍が放棄した平壌城を占領した。 |
| 6月下旬には黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略した。 |
| 8月初旬の漢城会議で明の援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固め、李廷馣の守る延安城を攻撃を行ったが落とすことが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守った。 |
| 同じく三番隊の大友吉統は鳳山城・黄州城を拠点とした。 |
| 文禄2年(1593年)正月に中央から派遣された李如松率いる明の大軍が小西行長等の守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用した。 |
| 漢城に集中した日本軍は碧蹄館の戦いで南下してきた明軍を撃破し、戦意を失った明軍と兵糧不足に悩む日本軍との戦いが停滞する中で、長政は幸州山城の戦いにも出陣した。 |
| 和平交渉が進み、日本軍は4月に漢城を放棄して朝鮮半島南部へ布陣を行った。 |
| 6月には朝鮮南部の拠点である晋州城を攻略し(第二次晋州城攻防戦)、長政配下の後藤基次が先陣争いで活躍した。 |
| その後の南部布陣期の長政は機張城を守備する。 |
| 慶長元年(1596年)9月に日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じた。 |
| 慶長2年(1597年)7月に元均率いる朝鮮水軍による攻撃があり、反撃により漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は8月より主に全羅道から忠清道へ攻勢を掛けた。 |
| 長政は再度5千人の軍役を課せられ右軍に属して黄石山城を攻略し(黄石山城の戦い)、8月に全州で左軍と合流し、全州会議に従って各軍の進路を定めた。 |
| 長政は加藤清正や毛利秀元等と右軍を形成して忠清道の天安へ進出した。 |
| 日本軍の急激な侵攻を受けて、漢城では明軍が首都放棄も覚悟したが明軍経理の楊鎬が抗戦を決意し、派遣された明将の解生の軍と長政軍が忠清道の稷山で遭遇戦(稷山の戦い)となり、激戦の末に秀元の援軍もあり明軍を撃破し、数日間稷山に駐屯した。 |
| 『黒田家譜』によると駐屯中の長政に対して、解生は白鷹を贈るなどして和議を求めたとされる。 |
| 長政軍が稷山に至ると漢城では恐れ戦いた多くの人々が都から逃亡した兵至稷山,都城人,皆奔散。 |
| 『懲毖録』。 |
| その後、長政は秀元、清正と鎮州で会議を行い、竹山、尚州、慶山、密陽を経て梁山倭城を築城して守備についた。 |
| 占領地を広げて冬営のために布陣していた日本軍に対し、12月末から経理楊鎬・提督麻貴率いる明軍が完成間近の蔚山倭城へ攻勢をかけ(第一次蔚山城の戦い)、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。 |
| 長政はこの救援軍に600人を派遣しており、後にその不活発さを秀吉から叱責される。 |
| 明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最東方)、順天倭城(最西方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を秀吉に打診したが却下された。 |
| 結局、長政の梁山倭城のみ放棄が認められ、以後撤退命令が出るまで長政は亀浦倭城へ移陣した。 |
| 慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去し、日本軍が明軍を三路の戦いで撃破すると長政ら日本軍はそのまま撤退した。 |
| このように朝鮮では数々の武功を挙げたが、同時に吏僚である石田三成や小西行長らと対立した。 |