| イワン・シャポヴァロフと、彼の友人でありビジネス・パートナーであったアレクサンドル・ヴォイチンスキーが、ロシアで音楽プロジェクトを始める計画を立てた。 |
| この案を練りながら、シャポヴァロフとヴォイチンスキーは1998年初めにモスクワで十代の女性歌手を対象としたオーディションを開催した。 |
| オーディションが終盤となるころには、シャポヴァロフとヴォイチンスキーは候補者を十人に絞っていた。 |
| そこには、ニェポセドゥイ()の元メンバーであったリェーナとユーリャも含まれていた。 |
| 二人の少女はとりわけ出で立ちと歌の経験について他の候補者よりも際立っていたが、シャポヴァロフとヴォイチンスキーは、ロクセットの「愛のぬくもり」(ItMustHaveBeenLove)を歌った十三歳のリェーナ・カーティナを選出する。 |
| リェーナはデモ曲の録音を始めた。 |
| リェーナの父セルゲイ・カーチン()は優れた作曲家で音楽プロデューサーでもあり、ヴォイチンスキーとは面識があった。 |
| このときのグループ名は「」ではなく、単に「プロジェクト」だった。 |
| ちょうどそのころ、ヴォイチンスキーはアライド・フォース作戦の爆撃でユーゴスラヴィア(当時)の首都ベオグラードにいた家族を失い、悲しみに打ちひしがれていた。 |
| そこでヴォイチンスキーは不条理な戦争の悲しみや憤りを込めた「ユーゴスラヴィア()」 |
| しかし「ユーゴスラヴィア」はまったく売れなかった。 |
| これを不満に感じたシャポヴァロフは、プロジェクトにもう一人女の子を加えることを提案した。 |
| そして、1998年10月の終わりに、十三歳の少女であったユーリャ・ヴォルコワをグループに加えた。 |
| またボリス・レンスキーを出資者として招きよせ、プロジェクトの財務面の安定化を図った。 |
| 作家陣としては、セルゲイ・ガロヤン(作曲)、ワレリー・ポリエンコ(作詞)の二人を発掘した。 |
| それまで全く無名な学生に過ぎなかったガロヤンとポリエンコは、若い才能を充分に開花させることとなる。 |
| こうして「プロジェクト」は「」に改称された。 |
| 英語盤のアルバムを発売するに当たっては、すでにオーストラリアにTatuというバンドが存在していたことに配慮して、グループ名の英語表記をt.A.T.u.とした。 |
| こうして、リェーナとユーリャはプロデューサーらとともにレコーディングを進めていった。 |
| シャポヴァロフは、当時の恋人でありMTVロシアに勤めていたエリェーナ・キーペルから、t.A.T.u.の新しい路線を決める着想を得た。 |
| キーペル自身は、スウェーデン映画『ショー・ミー・ラヴ』を参考とし、ミドルティーンの少女同士が織りなす甘く切ない物語、または性を超えて愛しあう純粋なふたつの魂の結びつきというイメージを描いていたが、シャポヴァロフはキーペルの案をより過激で煽情的に具現化させようとした。 |
| ヴォイチンスキーは、シャポヴァロフが進めたこの路線について意見の折り合いをつけることができず、プロジェクトを離脱することとなった。 |
| シャポヴァロフは、ヴォイチンスキーに代わり、キーペルをデビュー・アルバムの共同プロデューサー兼共同作家として迎え入れた。 |